第34話 ニートの城の、騒がしき朝

僕の意識を現実に引き戻したのは、アラームの音ではなく、背骨と腰、そして全身の関節が上げる悲鳴だった。フローリングの上での雑魚寝は、運動不足の28歳の体には、あまりにも過酷な試練だったらしい。うめき声を上げながら目を開けると、僕の部屋には、昨日まではありえなかった「朝の光」が差し込んでいた。


そして、匂い。

僕の部屋を満たしていたはずの、埃と倦怠の匂いではなく、香ばしい出汁と、ほんのり甘い卵焼きの匂いがする。


「おはようございます、夏彦!」


キッチン(と呼ぶのもおこがましい、一口コンロのスペース)に立っていたのは、ヴィオレッタだった。彼女は、僕のヨレヨレのエプロンを器用に着こなし、すでに朝食の準備を終えようとしている。なんてことだ。この城で、朝食が作られている。天変地異の前触れかもしれない。


「あら、おはよう、クリエイター。よく眠れたかしら? 私はあなたの布団のおかげで、ぐっすりよ」

僕の敷布団の上で、ブリジッドが猫のように優雅に伸びをした。その悪びれない態度に、僕はもはや、何も言う気になれなかった。

部屋の隅では、ブラッドがいつの間にか目を覚ましていて、壁に寄りかかったまま、腕を組んで窓の外を眺めている。「フン、朝か」という呟きは、ハードボイルド小説の書き出しのようだ。


僕の乏しい食料庫の中身——米と、卵数個、そして乾物のワカメ——だけで、ヴィオレッタは、完璧な日本の朝食(ご飯、豆腐とワカメの味噌汁、ふわふわの卵焼き)を創造していた。僕が床に置かれたローテーブルの前に座ると、三人も、ごく自然にその周りに集まってくる。

ブラッドもブリジッドも、文句の一つも言わずに、黙々と箸を進めていた。きっと、彼らのいた世界には、こんな温かい味噌汁はなかったのだろう。


僕の人生で初めてかもしれない、誰かと囲む食卓。

うるさくて、面倒で、プライバシーもない。でも、一人でカップ麺をすすっていた時より、味噌汁は、ずっと温かくて、美味しかった。


もちろん、平和なだけでは終わらない。食後には、我が家唯一のユニットバスを巡る「第一次洗面所大戦」が勃発した。ブリジッドが「レディの身だしなみよ」と言いながら一時間以上も占拠し、トイレを我慢する僕とブラッドがドアの前で地団駄を踏む羽目になったのだ。


そんな、ありふれた日常のような、しかし決定的に非日常な時間が流れる。

やがて、朝食の片付けも終わり、一息ついたところで、テレビのニュースが、僕たちを現実へと引き戻した。

『…昨日、世界各地で出没した『虚無の観測者』ですが、専門家は、彼らの次なる狙いは、物語を創造する力を持つとされる『特異点』そのものではないかと分析しており…』


画面に映し出された、僕の似顔絵(警察が作ったのだろうか、あまり似ていない)を見て、部屋の空気が変わる。

ブラッドが、ニヤリと笑って立ち上がった。


「さて、腹も膨れたことだしな。昨日のお返しと、いこうじゃねえか」


ああ、そうだった。僕たちの日常は、世界の存亡を賭けた戦いの、ほんの束の間の休息に過ぎないのだった。

僕は、この奇妙なジェットコースターのような日々に、もはや慣れ始めてしまっている自分に気づき、熱いお茶をすすりながら、小さく苦笑した。

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