アラン・フォスターと白の魔導師


 

 

 貿易都市セントバ郊外。

 

 二頭立ての馬車コーチが一両、月に照らされた街道を急速に南下していた。馬車の両脇と後方に武装した騎手——軍馬が追従している。この三騎は馬車の護衛なのだろう。後方の騎手は、月明かりと馬車の四隅でガシャガシャと音を立てる角灯を頼りに背後へ伸びる街道を警戒している。左側方の騎手は前を、右側方の騎手は右手に広がる森へ目を凝らしている——その様子を見れば、何かに追われていることは直ぐに判った。


 追跡者の正体も直ぐに判った。

 後方の暗がりから月明かりの街道へ姿を現したのは、黒の軍馬に騎乗したアラン・フォスターだった。

 追跡者の姿を認めた後方の護衛は「アランだ!」と他の二人へ注意を促すと、少しばかり速度を落とし背にかけた弓を手に取った。馬鹿正直に街道を追跡してきたアランは月明かりの元では格好の的である。両膝で鞍を強めに抱え込み、身体を捻ると器用に矢を射りアランを牽制した。

 右の護衛も同じく弓を手に取ると素早くアランへ射かけ、左の護衛は速度を上げ御者へ何やら指示を出している——護衛の三人と御者は、こういった荒事に随分と手慣れているようだ。

 しかしだ、左の護衛は速度を緩め後方を確認すると——驚きの表情を浮かべることとなった。アランは怯むどころか、ぐんぐんと速度をあげ一団へ追いつこうとしている。馬車の一団は、無理は承知であったが襲歩で振り切ろうとしているにも関わらずだ。左の騎手は「馬も化け物かよ」と、思わず愚痴をこぼしていた。


 

 ※ ※ ※

 

 

 馬車の中で打ち震えたのは、娘を残し逃げ出したクラウスだった。


 バンバンバン!

 無用に飾られた馬車の扉が不躾に叩かれ、車内に乱暴な音が響いた。

 クラウスは、それに「ひっ!」と情けない声を挙げたが車窓から覗いた護衛を目にすると「ど、どうした!」と声を裏返しに、がなり散らした。その合図は追跡者が追い付いてきたことを知らせているのだろう。それであれば追跡者を排除するのが護衛の果たすべき仕事だ。しかし外の様子がおかしい。だから、予想した答えを耳にしたくなく半ば苛ついているのだ。


「クラウスさん! 駄目だ振り切れねえ!」


 左の護衛は、クラウスの予想通りの答えを叫んでいた。

「だから、ど、どうしたと云うのだ!」クラウスは震えた声で不躾に叫んだ。振り切れないと云うのは、聞き間違いではないようだ。クラウスはそれに細身の体を跳ね上げ、馬車の小窓を勢いよく開け放つと「お前らにどれだけの金を払っていると思っているんだ! どうにかしろ! とっとと殺してしまえ!」青白い顔で、外の護衛の男へ再び怒鳴りつけた。

 それに、護衛はあからさまに顔色をかえ「あいつは、館の奴らを全員、殺っちまったんだぜ。無茶だ!」と叫び返ながら何度も後方を確認をしていた。いよいよ黒の軍馬が、直ぐそこまで近づいて来ている。

 

「だったらどうするのだ! 無茶無理は承知の上だろ! お前が囮でも何でもなってなんとかしろ!」クラウスは青白い顔を紅潮させ、またぞろ怒鳴り散らした。

 そんな雇い主の言葉に護衛は表情を無くすと「りょーかい」と半ば呆れた声で答えた。そして、クラウスを押し込むよう乱暴に小窓を閉めると「んなわけねえだろ、この青瓢箪が」と、窓を目掛け唾を吐きかけた。クラウスは勢いよく閉められた勢いに驚き、ひっくり返っている。


「おいお前ら! 雇い主様はあの黒いのをなんとかしろってよ!」

 左の護衛は更に速度を緩めると他の護衛へ声をかけた。明らかに不機嫌で乱暴にだ。それに他の二名は意気消沈したようで「はあ」と大きくため息をついていた。

「兄貴、そりゃ無茶だろ! あんな化け物どうやって殺るってんだよ!」後方を固める騎手が声を張り上げた。

 

「殺す必要はねえぜ! 逃げ切って適当なところで青瓢箪から金をせしめてトンズラだ。もうそれしかねえ! いいな!」兄貴と呼ばれた左の護衛は、どこか思惑のある表情を溢すと、そう後方の護衛へ返した。


 

 ※ ※ ※


 

 ——胸糞悪い夜だ。

 風景が視界の中を狭く流れていくなか、馬上のアランはそんなことを思っていた。綺麗に月明かりが街道を照らしてる。遠くに別の馬が数騎、土煙をあげ疾駆する姿もはっきりと見えた。こんなにも追いやすく状況が整えられているのは、気持ち悪さを覚えずにはいられない。館で手にかけてしまった少女のこともそうだ。脳裏から離れない。赤く染まった顔、骸、そんなものを頭の中で反芻してしまう。あれも仕組まれたものだったのではないかと、現実から目を背けるよう考えるたびに吐き気が襲ってくる。


 アランにとって今夜の出来事の全てが胸糞悪いものなのである。


 そうこうするうち、随分と距離を詰めたアランは身体をもたげた。クラウスの一団の最後尾が見えてきたのだ。そして「いち、に、さん」と護衛の頭数を数えると、かぶりを軽く振るった。こんな時でさえも手にかけた少女の顔が脳裏をよぎり、遂には自分の娘の顔と重なったのだ。

「呪いでもかけやがったか。模造だろうと得物を手にすれば、そっから先は戦場だ。恨まれる筋合いも呪われるもねえ」何に云い訳をするわけでもなかったがアランはそう溢すと、先を駆ける獲物へ追いつくよう愛馬に合図を送った。

 

 まだ少し冷たいが春を匂わせた夜風がアランの頬を強く撫でてゆく。

 それにアランは、もう一度かぶりを振るうと目を鋭く細め、背負った〈黒鋼〉を器用に取り外した。もう、最後尾に喰らいつくのも時間の問題だ。


 

 ※ ※ ※


 

「くそ! 追いつかれる!」護衛の一人が叫んだ。

 

 それに気が付いたのか小窓から再びクラウスが顔を覗かせ「追いつかれる! じゃ、ないだろう! さっさと片付けてくれ!」と上擦った声で護衛達を捲し立てた。

 それに苛立ちを顕にした護衛の一人は「気軽に云ってくれるもんだ」と小声で吐き捨て「クラウスさん、危ねえから顔を引っ込めてくれ」と、やはり乱暴に小窓をピシャリと閉じた。無理矢理に顔を押し込まれ車内へ、またぞろ転げたクラウスは、何やら喚きちらすと今度は御者へもっと早く走れないのかと急かす始末だ。これには護衛達も肩を竦ませ半ば、呆れ返った。


 

「おら、ぼさっとしてねえで弓をひけ、弓を!」

 兄貴と呼ばれた護衛は他の二人に発破をかけると、自らも背負った弓を器用に手に取り矢筒から矢をつがえた。上下する身体を上手いこと制御した男は後方に身体を捻り、疾駆するアランを鋭い視線で捉える。

 アランを射るには上下に揺れた身体と強く早く流れる風は相性が悪い。ギリギリギリと弓弦を引いた男は、それであればと射るまとを軍馬に定めた。馬を崩してしまえば、どうやっても逃げ切ることができるだろう。


 横を見れば他の二人も懸命に弓を引きアランを狙い撃ちにしようと矢を射かけてはいるのだが、案の定に矢は風圧に負け上方へ外れてしまっている。運よくアランを捉えようとする矢はことごとく〈黒鋼〉に叩き落とされていた。

「手を休めるなよ! どんどん射かけろ! 矢筒が空になるまで引き続けろ!」そうだ、追跡者の気を散らせろ。アランに気が付かれ走路を変えれば、もともこもない。


 

 ※ ※ ※


 

 漆黒の軍馬と騎手はどうみても死神であった。

 少なくともクラウスにはそうだった。あの姿を目にすれば歯がカチカチと音を鳴らし、身体は胃の底から震えあがった。いっそうのこと胃の中に収まったものを吐き出してしまった方が楽なのかも知れない。

 

 細い体躯に大振りすぎる豪奢な衣裳は、そんな気弱な性格を普段なら包み隠したのであろう。でも今は違った。今や虚勢は何の役にも立たない。迫り来る死神をどうにかしようと、震える歯と身体を抑え、みっともなく車内に這いつくばったクラウスは何かに気がついた。背筋を撫で上げる気色の悪い感覚。指が触れるか、触れないか焦らしたような不快な感覚。そんな得体の知れない何かで背筋を撫でられたように感じたのだ。


 背後に何かが居る——クラウスは目をひん剥き、ゆっくりとやつれた顔で背後に目をやった。


 

 ※ ※ ※


 

「しんがりは任せたぞ!」

 アランの軍馬を狙った男はそう叫ぶと走路をはずし、迫り来る死神から距離をとった。今やアランと馬を並べるほどの距離で剣を撃ち合う護衛の二人は「だめだ! だめだ!」と叫びながら、黒鋼の強撃をやっとの思いで弾き返している。いや、きっとそれはアランがそうしようと弾いているのだ。右から襲いくる刃を弾きその勢いをそのままに左の刃を叩き落とそうと立ち回っている。

 その勢いに次第と二人は押され気味となり、刃が合わさるたびに馬は小さく嘶き首を下げた。もう耐えきれないだろう。走路を外した男はそう心中に察すると弓弦をまたぞろギリギリギリと引き絞りアランの軍馬に的を絞った。


 

 ※ ※ ※


 

「難儀なものだな強欲な商人よ。どうだ命を買わんか?」その声に振り返ったクラウスが目にしたのは白の外套に身を包んだ老人だった。

 しゃがれた声は白の外套を邪悪に見せ、深く被られたフードから覗いた皺が深くこけた頬は死神を思わせた。白外套は車内の腰掛けに浅く座りクラウスを落ち窪んだ双眸で見下ろした。

 返答のない問いかけへ両肘を膝に落とし指をカサカサと忙しなく動かし苛立つと、死神は「耳はまだついているのだろ? さっさと答えろ商人」とクラウスを煽り立てた。

 

 外からはとうとう剣戟の響きが耳に届き、いよいよクラウスの焦燥は頂点に達した。しかし、口を突いた言葉は実につまらないものだった。目の前にした畏怖の塊——死神、悪魔なにかそのような者に見えた老人の気迫に気押されたのだ。「だ、だれだお前は。いつからそこに?」


「儂の問いに愚問で返す阿呆がいようとは驚きだぞ商人。答えろ。そして望め」

「な、何をだ?」

「お前の耳は飾りか? それとも脳が湧いておるのか?」


 白外套はカサカサと動かした指から、節くれた人差し指を立てると今にも嘔吐しそうな青褪めたクラウスの左耳へそっと触れた。そしてそれをゆっくりと縦にひっぱる。次に聞こえたのはクラウスの絶叫だった。ぼろりと左耳が削ぎ落とされたのだ。

 血を流したクラウスは「耳が、耳が」と連呼するなか「痛い、痛い」と言葉縫い込み、のたうちまわり思わず死神の裾を血まみれの手で掴み救いを求めた。「た、助けてくれ。助けてくれ。」クラウスは苦痛にまみれた情けない声ですがった。

 

「おお。ようやく聴こえるようになったか。どうだ? 命が惜しいか」白外套は、しゃがれ声でそう云うと、車窓から見える弓弦を引き絞る護衛へ目をやった。赤黒い瞳がフードから覗くとそれは蛇のように瞳孔が縦に絞られた。


 

 ※ ※ ※


 

 どうも馬車の中が騒がしいようだ。

 青瓢箪はまだ戯言を喚き散らしているのかもしれない。

 弓弦を引き絞った護衛は、そろそろアランの馬のどこを射抜くか心に決めた。この一矢を外せば後はない。矢筒はすでに空っぽだ。だから、騒ぎ立てる青瓢箪にかまっている余裕はもうないのだ。

 その時だった。心に響く声が男を驚かせた。

(手を貸そう戦士よ。矢尻が緑に輝いたら馬の胸を射抜け)


「なんかの冗談だろ」護衛それに固唾を飲み一言溢した。

 背筋を不気味に撫で上げるような奇妙な感覚を覚えると、馬車の方へ目だけを向けた。はたしてそこに在ったのは、白外套に身を包んだ老人であった。フードから覗く赤黒い瞳が護衛を捕らえ蛇のように瞳孔を縦にられた。



 

 ※ ※ ※


 

 右に一回、左に一回。アランは器用に切っ先を踊らせると〈黒鋼〉で護衛の刃を撃ちつけた。軽やかに振りかぶり、頂点へ達すると激しく撃ちつけ、わざわざ相手を押し出すように刃を弾いた。その勢いに任せ逆を走る護衛へ切っ先を向ける。そこに散った火花が〈黒鋼〉の軌跡を追いかけ扇を描いているのを見れば、その激しさが伺い知れた。

 

 次第にその軌跡がこじんまりとしてくると、最後には右の馬は足から崩れ、〈黒鋼〉は無防備になった男の護衛をかち割った。脳漿をぶちまけた骸は、流れゆく背景にごろごろと姿をけしてゆく。

 斬り捨てた勢いのまま身体を捻ったアランは、次に左の男の腹を目掛け振り抜いた。

 黒刃は確かに左の男の腹を捕らえるはずであった——そのはずであったのだがアランの視界は突然にガクンと下がり、思いも掛けない方向へと倒れていった。

 

 

 剣戟の最中、アランは血と鉄、草と花の匂いとは別のものを感じていた。すえた魔力の臭い。魔導師もしくは魔術師——そのいずれかの気配だ。まさか魔力を扱うものがこの場に居るとは思っていなかった。

 しかしそれでも、先ほどアランを襲った葛藤さえなければ、こんなことにはならなかったはずだ。〈黒鋼〉を横へ振り抜く瞬間に前方で緑の閃光が走ったのだ。雑念さえなければ、それを叩き落とし護衛の腹を捕らえることができただろう。だが、今夜は——勝手が違う。「くそが。本当に胸糞悪い夜だ」アランは倒れていく視界の中、吐き捨てた。

 緑の閃光が前を駆ける馬から放たれると、見事にアランの軍馬の胸を捕らえ破裂をしたのだ。軍馬は鮮血を撒き散らし崩れ落ちアラン・フォスターを投げ出したのだった。


 満天に散りばめられた星々の輝きが、ごろごろと転がったアランを迎えた。

 クラウスを乗せた馬車——アランの希望が、娘の命が遠くに走りさってゆく。轍を拾った忙しない車輪の音は、まるでアランを嘲笑うようだった。


 

 ※ ※ ※


 

 白外套はいつのまにかクラウスの馬車から姿を消し、アランが転がった街道に立っていた。

 派手に転がったアランの姿を眺めると乾いた笑いを挙げ、ゆっくりとまるで滑るように彼のもとへ赴いた。その様子はさしずめ亡霊の類のそれといえば分かりやすいだろう。スススと動くと音もなくアランのかぶりの前に姿を見せたのだった。


「無様なものだなアラン・フォスター。お前の獲物はもう遥か南。さてどうする? これではお前の娘は助からんな」

「お前は——薬師の……。クソが、あいつらに手を貸したのはお前か?」

「訊いてるのは儂だ。答えろ。どうするのだ」

「知るかよ。お前らは何がしたいんだ」

「嗚呼、不毛だ。さてはお前の耳も飾りとみえる。しかしだ。しかしだアラン・フォスター。お前の運命の歯車はまだ噛み合っておらぬな。だからお前の耳は聴こえんのだ。それであれば——心を決めるため、歯車の一つとなるため、家へ戻れ。お前の虚栄の結末を確かめてこい」


「お前!」それにアランは、短く唸り立ちあがろうとしたが、その刹那——瞬く間に白外套は姿を消したのだった。もう、月明かりに照らされた街道には誰の姿もなかった。


 

 ※ ※ ※


 

 アランは昨晩の追走から寝ていなかった。

 それだからか、目眩が酷く足元も覚束ない。

 昼下がりには目抜き通りに辿り着いたアランは朧げな記憶を頼りに薬師の店へ向かっていた。〈白銀の薬師〉の真意を確かめるためだ。十中八九、あの魔導師は薬師の意図のもとに動いているだろう。あの薬師は何を望んでいる? 腕を望むのならその場で斬り落としたって良い。脚を望むなら丸薬を届けた後、喜んで差し出してやる。アランはそう心に決めていた。


 目抜き通りから一本奥の路地は昼下がりだというのに随分と暗い。

 アランは、薄ら暗い路地をふらふらと歩いた。家屋の壁に手を添えながら覚えのある扉まで必死にだ。確かこの薄ら暗い路地には似合わない真新しい白木の扉だったはずだ。そして——ぐねぐねと視界が歪むなか、それらしき扉の前に行き当たった。


 バンバンバン!

 何度か扉を荒々しく、押し引きしたのだが白木の扉はうんともすんとも云わなかった。だからアランは最後には扉を何度も打ち据えていた。すると幾つか向こう隣の家から「うるせええぞ!」と怒号が飛び、音に寝込みを襲われた野良猫は暗がりに逃げ込んだ。


「くそが....」

 アランは力無く白木の扉を背に座り込んでしまった。

 通り掛かった宿無しが云うには、ここには誰も住んでいないそうなのだ。しかし、アランの記憶はこの扉を鮮明に覚えていた。見紛うはずもない。


 見上げれば建物と建物を通した紐にぶら下がった幾つもの衣類や布が春の風に吹かれていた。軽やかに揺れ、その隙間から見え隠れする太陽は随分と硬い光を落としているように思えた。きっとそれはアランが酷く疲れていたから、そう感じたのだ。

「どうなってるんだ。畜生! 畜生!」

 アランは黒髪を掻き乱し、手に取った路傍の石を向かいの壁に投げつけた。

 鈍い音が反響する。

 それは酷く虚しく、酷く悲しく、酷く憂いに満ちた音だった。


(だからお前の耳は聴こえんのだな。それであれば歯車の一つとなるため、家へ戻れ。お前の虚栄の結末を確かめてこい)


 アランはあのしゃがれ声を想い出すと目を見開き力の限りに駆け出した。


 

 ※ ※ ※


 

 それから数日後——エドラス村。


 エドラス村までの道中に、怪しげな女戦士の一行と出会したアランであったが幸いにも向こうはアランを警戒したのか、なにごともなくその場をやり過ごせた。あれが〈暁〉の戦士であったのならば相手にしなければならなかった。


 

 アランの住まいは村外れの小高い丘の上にあった。

 春にもなれば家の裏には瑠璃唐草ネモフィラが咲き乱れ、元気だった頃の娘はそこを駆けずり回って遊んだものだ。日が昇れば朝食の支度をする音に匂いといった平穏な幸せの気配を滲ませたのだ。しかしその気配はもう、そこにはなかった。


 そこにあったのは焼け焦げ崩れ去った廃屋だった。

 未だ酸味のある燃え滓の臭いを撒き散らしている。


「なんだよこれ——こんなことあってたまるかよ」

 アランはかつての住まいを前に力無く跪いた。

 何度か妻と娘の名前を叫んだが、この様子に返ってくる声がある筈もなく、疲労を滲ませた声は朝靄の中に消えてなくなった。朝鳥は呑気に煤けた木材で羽を休めチチチと囀ると、蹲ったアランの姿に何度か首を傾げ、そして飛び立った。

 アランは涙を流した。

 嗚咽すら漏らせず胸ぐらを強く握り締め口をだらしなくした。何故こうなったのだ。これは何かの幻想なのか。それであれば自分はいつからその幻想に足を踏み入れた? 妻の反対を押し切り村を飛び出した夜からか? それとも薬師の店をくぐった瞬間からか?


「俺が何をしたって云うんだ……。どこにいっちまったんだ……」

 やっと絞り出した声。

 それは脳裏をよぎった最悪の事態を掻き消そうとした一言だった。本当は妻も娘も焼け死んでしまったのではないのか。いや、賊に押し入られ命を奪われたのかも知れない。せめて連れ去られたのであれば、救いに行くことはできるだろう。救った後どうであろうともだ。


 ガラガラ……。


 焼け落ちた家から煤けた何かが遠慮がちにころげ落ちた。

 しかし——アランが今、顔を上げたのには別の理由があった。

 背後に気配を感じたのだ。覚えのある気配。アランをここまで導いた気配。アランは、その気配をよく知っていた。


「おい、魔導師。どう云うつもりだ。お前の云った歯車ってのはこのことか?」

「おお。腐っても黒鋼を背負う戦士、儂を取るか」

「今、訊いているのは俺だ。答えろよ魔導師」

「そういきり立つな、アラン・フォスター」

 アランの背後へ立ったのは、追走劇の夜に姿を見せた白外套——〈白の魔導師〉であった。


「このことを知っていたのか?」

「嗚呼、だから家に戻れと云っただろう。この惨状は、お前が頸を跳ねた〈暁〉の戦士の報復だ」

「くそが……。それでウチのはどうなった?」

「お前の妻と娘は儂が救ってやった。今頃は本国のエイゼンだ」

「話が見えないな魔導師。なぜウチのを救った。なんの義理があって——」


「義理? 世の道理とな? はて、お前がそんな浮世の理を気にするのか。お前はいつだってお前に正直だった。違うか戦士よ。お前の理へ家族を巻き込み引っ張り回した。しかしだ。その理は端を閉じなかった。言い換えればお前の夢は潰えた。だから、お前は女々しく綻んだ先を離さず、もう一度結び直そうとした。その結果がこれだ。それでだ、お前の問いに答えよう。儂はお前に興味がある。その浅ましいまでの夢とやらは儂の主が望んだ歯車の一つに相応しい。だからお前の家族を救ってやった。もっとも、あの様子ではお前の元には戻らんだろうがな。それでどうだ——」


 アランは背中越しに魔導師の言葉を受け止め様子を伺った。

 自分の言葉で悦に浸る魔導師の様子をみれば、どうやら僅かながらでも身体を動かすことはできそうだ。だからアランは折った膝を軸に僅かに気付かれぬよう身体を動かした。

 魔導師はそれを知っていた。赤黒い蛇目でアランの姿を追い、所々で舌舐めずりで乾いた唇を舐めまわした。不敵に笑みを浮かべ、戦士が真正面に立つのを待ったのだ。そして目の前の黒の戦士が両手剣を構え切っ先を自分に向けると、言葉を続けた。

「それでどうだ、アラン・フォスター。お前の夢を叶えるため、儂はお前に手を貸そう。強欲なお前のことだ、他力は不要ということであれば有益な情報を与えてやっても良い」

「俺の夢? 有益な情報? お前が俺の何を知っていると云うんだ」アランは目を細め魔導師を睨め付けた。


「嗚呼、知っているとも。儂の主の目は全てを見通す故にな。お前は英雄と呼ばれ、羨望の泉に溺れ、酒池肉林のなかあらゆる欲望を満たしたいのだろ? 平然とし万事、興味を持たぬと云わんばかりの顔の下では、そんなことを望んでいる。違うか? 酒に溺れ、毎晩上等な女を抱きそして朝を迎えれば愛する家族がいる。そんな浅ましい望みを抱いている。だが、足枷もあったなアラン。小物ゆえ余計な正義感にかられる。それが英雄としての道を閉ざすのだ」


 純白の魔導師はさも気分よさげと口上を述べ、ゆっくりとアランへ歩みを進めた。そして、両の五指の腹を合わせ胸の前でカサカサと忙しなく動かした。蛇目は赤黒くやはりアランを捕え離さない。


(しまった動けない……!)

 アランは魔導師へ云い返そうと息を吸い込んだのだが声にすることができなかった。蛇に睨まれた獲物のように身体が硬直してしまったのだ。四肢に力は伝わらず構えた両手剣と同化してしまったのか、まるでそういった彫像といった塩梅にだ。

 すると目と鼻の先にまでやってきた魔導師は、嘲笑し忙しなく動かした両の五指から人差し指を立てるとアランの喉元へ突き立てた。


「ならば」魔導師はしゃがれた忌々しい声でそっと云った。

「我が主、〈白銀の魔女〉の歯車となり踊ってくれたまえよ、アラン・フォスター」

 魔導師は目を細めた。

 突き立てられた節くれた人差し指が幾分か強くアランの喉を押すと、ツツツと暖かいもの流れたのがわかった。それでもやはりアランは動けない。

「英雄になれアラン・フォスター。そうすればお前の望みも、お前をも羨望の眼差しでお前を見上げ脚元にすがるだろうよ」


 皺の深い口元が三日月を描いた。

 魔導師は小さく笑い囁きそして最後の言葉を結ぶ。


「サタナキアにもまた英雄への道を閉ざされ悲しみに暮れた者がおる。彼の者は祈る神を間違えたのだろうな。屍鬼の王と成り果てた。奴を討て。そして栄光を掴み取れ。己が理想とする居場所を得よ。しかし気をつけろ。屍鬼の王もまた目的を持ち闇の中に佇んでおる。ゆめゆめ忘れぬことだ」最後にほくそ笑んだ魔導師は、そう云うと赤黒の蛇目でアランを覗きこんだ。


 

 ※ ※ ※



「おおおおおうい! アラン!」その時だった。丘の麓の方から別の男の声がした。

「来るな!」その声を張り上げられたことに驚いたのかアランは目を丸くすると、全身から力が抜けへなへなとその場に座り込んでしまった。そして、アランは恐る恐る顔を上げたが、魔導師の姿はもうそこにはなかった。


「アラン大変だ! 村に〈屍喰らい〉が!」麓から駆けてきた男はアランの姿を認めると矢継ぎ早にそう伝え、やはりへなへなと座り込んでしまった。


 その刹那——アランは遠くで幾つもの煙があがっているのに気がついた。

 村が燃えている。


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