第7話『扉の前に立つもの』

――東京都内・あるワンルームアパート


 「……名前、返してくれる?」


 その声は、確かに部屋の中に響いていた。

 スピーカーからでも、イヤホンからでもなく――私のすぐそば。

 空気が震えた感覚とともに、冷たい気配が肌を撫でる。


 私は、おそるおそる振り返った。


 けれど、誰もいなかった。

 そこには、ただ薄暗くなった部屋と、机の上の日本酒と冷奴があるだけ。


 (今の声……ユメ?)


 再び、その名を心の中で繰り返した瞬間、

 視界がぐにゃりと歪んだ。


 気づけば私は、いつの間にか見覚えのある石段の前に立っていた。

 画面もない。部屋もない。

 これは夢ではない。記憶でもない――“連れてこられた”。


---


――異界・旧〇〇村の境界


 私の目の前には、拝殿があった。

 けれど以前と違っていた。


 空は血のような薄赤で、風はないのに、木々の枝がひとりでに揺れている。

 そして、その拝殿の前に――“ユメ”が立っていた。


 白いワンピース。

 肩までの黒髪。

 顔は……穏やかだった。けれど、**眼差しに“人間でない何か”**が宿っているように見えた。


 私は声をかけようとして――止まった。

 返事をしてはいけない。

 言葉を交わせば、“通じてしまう”。


 けれど、ユメが微笑みながら口を開いた。


 「覚えててくれて、うれしい。……あの時、わたしのことを“ユメ”って名付けてくれたよね?」


 私は、息をのんだ。


 (……私が……名付けた……?)


 思い出す。

 あの夏の日。

 誰も名前をつけてくれなかった“あの子”に、私は「ユメ」と呼びかけた。

 それが、彼女の初めての“名”だった。


 「ねえ、“神様”ってね、名前をもらうと、生き物になるの」

 「人間に名前をもらったら、人間になろうとしちゃう」

 「でも、忘れられたら、“名前を食べるもの”になっちゃうんだよ」


 彼女の言葉は、静かに、優しく、そしてどこか悲しかった。


 「わたしが、“そうなっちゃう前”に……ね、お姉ちゃんが、封じてくれた」



---


――旧〇〇村・拝殿地下


 その頃、現地では拝殿地下にいた4人が、“碑”を中心に異変に気づいていた。


 石碑に触れた森山の掌が、わずかに熱を持った。


 「……こいつ、動いてる」


 碑の中央――かつて“手形”が彫られていた場所が、微かに脈打っている。

 音も光もないのに、そこだけが生きているかのように。


 飯村が低く呟いた。


 「これ……誰かが、“名を返した”んじゃないか?」


 佐伯が顔を上げた。


 「……まさか、視聴者の誰かが……?」


「配信、止まってるんだよな。……もしかして、“あの映像”を見た誰かが、呼んだのか?」


森山が真剣な顔で言葉を継いだ。

「名を返した瞬間、異界と繋がる……この空間が反応してるなら、“向こう”も開きかけてるのかもしれねぇ」



---


――異界・拝殿前


 ユメが、こちらに近づいてきた。


 「お姉ちゃん。あなたは、人間のままでいいよ」

 「でも、わたしは――もう、違うの」


 その言葉とともに、ユメの輪郭がふっと揺らいだ。

 人の形を保っていたはずの体が、光と影の境界のように、滑らかに、曖昧に、崩れはじめる。


 「名を封じたとき、わたしは“神ではなくなった”」

 「でも、人でもなくなった」

 「わたしは……“名前を思い出されることで蘇る、空の器”になったの」


 そして、彼女の背後に――巨大な“扉”が現れた。


 黒く、古びた木の扉。

 縄のようなものが巻きつけられており、その中心には、**読めない“名の刻印”**が刻まれていた。



---


 ユメは言った。


 「この扉の向こうに、“本当の名”が眠ってる。

 でも、それを開けたら、わたしはもう、“ユメ”じゃなくなるよ?」


 「それでも――見たい?」


 私は答えられなかった。

 でも、目を逸らすこともできなかった。


 “あの封印”の向こうにあるもの。

 かつて自分が忘れることで、守ったもの。


 ユメは、最後にもう一度、微笑んだ。


 「じゃあ、次に目を覚ました時、わたしがまだ“ユメ”だったら……それは、お姉ちゃんのおかげだね」



---


 光が弾ける。

 拝殿の景色が、風に崩れるように揺らぎ――


 私は、ベッドの上で、目を覚ました。


 時計は、午前2時08分を指していた。

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