第16話 君は大事な仲間だから

凍てつく氷原を、ふたりだけの影が歩いていた。


陽葵はコートにくるまり、小刻みに震えていた。奏多はその隣で、魂のバリアを維持しながら、彼女を支えるように歩いていた。


朔の姿は、もうない。


あの瞬間――

崩れ落ちる氷の亀裂の中に、彼は迷いもなく身を投げ出した。


仲間を守るために。


「……寒いね、奏多お兄ちゃん……」


陽葵のか細い声が、風にさらわれそうになりながらも届く。


「うん。でも……大丈夫。僕たちは、前に進まなきゃ」


奏多はそう言いながら、陽葵の手をそっと握る。

その言葉は、陽葵だけじゃなく、自分自身にも向けたものだった。


朔のことを思うと、胸が痛い。

だが立ち止まってしまえば、この地獄がすべてを凍りつかせてしまう。


僕らは――止まってはいけない。


そう信じて、一歩ずつ進んでいく。


二人きりの世界に、音はない。

ただ風が鳴き、氷がひび割れ、遠くでなにかが砕けるような音がときおり聞こえるだけだった。


しん……とした沈黙が続いた。


言葉も、感情も、白い息とともに凍りそうになる。


「……なんで、私なんか助けて……身代わりに落ちちゃうの……」

「やだよ……朔お兄ちゃんがいないの、やだよ……っ」


陽葵の目に、また涙が浮かんでいた。


奏多は立ち止まり、静かに陽葵を見つめる。


「陽葵、聞いて」


彼はそっと陽葵の肩に手を置いた。


「朔さんが陽葵を助けたのは、陽葵が大事な仲間だからだよ」

「それは、誰のせいでもない。僕もあの状況なら同じことをしたはずだ」


陽葵は、はっとして顔を上げる。


​「……でも、私……ずっと足手まといで……」


​「違う」


​奏多の声は、いつになく強く、きっぱりとした響きを持っていた。彼は陽葵の肩を掴む手に力を込め、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめて言った。


​「それは違うよ」


奏多の声には、迷いがなかった。


「僕が、ここまで来られたのは、陽葵がいてくれたからだ」


「だから今は、二人で乗り越えよう。必ず、朔さんを迎えに行こう。あの強い朔さんなら……絶対に生きてる」


陽葵の瞳が、かすかに潤んだまま、力を取り戻すように光を宿す。


「……うん」


小さく、でも確かに頷いたその瞬間――


二人のあいだに、また静寂が戻る。


ふたりはそのまま、言葉を交わさず、無言で氷原を歩き続けた。



どれほど時間が経ったのか分からない。

風は止み、雪も静まり返り、世界が息をひそめていた。


ただ、白。白。白。


どこまでも続く氷と雪。


その沈黙の中で――


不意に、奏多の足が止まった。


「……陽葵。静かに」


低く絞った声と共に、奏多は陽葵の手を引き、そっと岩陰に身を潜める。


陽葵も黙ってうなずき、身をかがめる。


――その視線の先。


少し離れた氷の上に、二つの影が見えた。


吹き溜まりの雪が巻き、視界は悪い。だが確かに、そこには何かがいた。


倒れ伏した、大きな影。

その胸元に、うずくまるようにしがみつく、小さな影。


「……あれって……鬼……?」


陽葵が震える声で囁いた。


奏多は目を細める。


鬼。だ。


ひとりは大人の鬼。母親らしき存在。

そしてその胸元には、怯えたように抱きつく、子どもの鬼。


母の体は動かない。

黒い霜のようなものが氷に染み出し、血のように広がっていた。子鬼は、震えながら母の顔を覗き込んでる。


「……あの子……泣いてる……?」


陽葵の声が、風よりも小さく呟く。


奏多は黙って見つめた。


この地獄において、鬼はすなわち敵――

だが、いま目の前にある光景は、それとはまるで違っていた。


敵のはずの存在に、同じ痛みがあるように感じたのは――


錯覚だろうか。



それでも、二人の目には確かに映っていた。


「親子」の姿が。


そして、傷つき倒れた母を守ろうと震える、ひとりの小さな子の姿が。


果たしてこれは、ただの敵か――

それとも、何かが変わる兆しなのか。


奏多は息をひそめたまま、じっとその様子を見守っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る