第2話
錆びた鉄の匂いと、微かな嘔吐物の酸っぱい臭いが混じり合う。
大型フェリーの二等船室は、東京という巨大な生き物の腹の中から吐き出された人々の吐息で満ちていた。
雑魚寝のカーペット敷きの床に、雄志は背嚢を枕にして横たわっていた。
身体は船の低いエンジン音と、太平洋のうねりに合わせて絶えず揺さぶられている。
消灯時間をとうに過ぎた船内は、いくつかの常夜灯だけがぼんやりと空間を照らしていた。
周囲からは、寝息や歯ぎしり、時折響く子供の寝言が聞こえてくる。
彼らは皆、明日から始まる島のバカンスに胸を膨らませているのだろうか。
家族旅行、友人同士のグループ、恋人たち。その誰もが、雄志のいる世界とは断絶された、別の次元の住人のように思えた。
眠れなかった。
目を閉じれば、瞼の裏にあの光景が焼き付いて離れない。
見慣れたはずのみのりの横顔。だが、あの時の彼女は雄志の知らない顔をしていた。
高級外車の助手席のドアが開き、すらりとした脚がアスファルトに降り立つ。
運転席から現れた男――三条誠太。
その男が、まるで長年連れ添った所有者のように、みのりの腰に手を回す。見せびらかすように手首で光る、高価だが控えめなデザインの腕時計。
そして、キス。
雄志がみのりとしてきた、触れるだけの純粋なものではない。互いの存在を確かめ合うような優しいものでもない。
それは、貪るような、支配するような、生々しい口づけだった。
うっとりと目を閉じ、男の首に腕を回すみのり。
その光景は、雄志が彼女と築き上げてきた三年という時間を、一瞬で無価値なガラクタに変えた。
「うっ……」
胃の底から熱いものがこみ上げてくる。
雄志は慌てて身体を起こし、壁際の手すりを掴んで立ち上がった。
千鳥足で薄暗い船内を抜け、甲板へと続く重い扉を押す。
夜の潮風が、一気に顔に叩きつけられた。
冷たく、湿った風は、船室の淀んだ空気で曇っていた意識をわずかに覚醒させる。
遠ざかっていく東京の光は、もはや水平線の下に沈み、見えるのは漆黒の海と、雲の切れ間から覗くわずかな星だけだった。
手すりに両腕を預け、身を乗り出す。
ごう、と風が耳元を通り過ぎていく。眼下では、船体に砕かれた波が白い航跡となって後方へ流れていく。
その泡立つ水面を見つめていると、吸い込まれそうな感覚に襲われた。
今、このまま身を投げ出せば、全てが終わるのだろうか。
この胸を締め付ける痛みも、裏切られた記憶も、粉々に砕け散った未来も。
この冷たい闇の中へ消えてしまえるのなら、どれほど楽だろうか。
ポケットの中のスマートフォンは、とうの昔に電源を落としていた。
いや、正確には、電源を落としたまま、二度と開かないと心に決めていた。
みのりからの最後の嘘のメッセージが刻まれたあの機械を、これ以上持っていることには耐えられなかった。
連絡手段は絶った。過去との繋がりは、すべて断ち切ったはずだった。
だが、記憶は消えない。
『まだ会社だよ、すごく忙しい! 会いたいな! xo』
あの文字列が、嘲笑うかのように脳内で点滅する。
あの時、彼女は男の腕の中で、どんな顔をしてこのメッセージを打ったのだろう。雄志の純粋な信頼を、心の中でどうやって見下していたのだろう。
吐き気は収まらない。それは船酔いのせいだけではなかった。
自分の人生そのものに対する、どうしようもない拒絶反応だった。
どれくらいの時間が経ったのか。意識は朦朧とし、思考は停滞していた。
夜明けを知らせる船内アナウンスが、遠い世界からの響きのように聞こえた。
人々が動き出す気配がする。雄志は力なく身体を起こし、誰とも視線を合わせないようにして、再び船室へと戻った。
やがて、船の速度が落ち、巨大な船体が岸壁に接岸する鈍い衝撃が伝わってきた。
「八重島、八重島に到着です。お忘れ物のないよう、ご注意ください!」
無機質なアナウンスが、雄志を現実へと引き戻す。
八重島。
衝動だけで予約した、片道の終着点。
乗客たちが次々とタラップへ向かう中、雄志は最後尾でゆっくりとその後を追った。
背中に背負った一つの背嚢。その中には、数日分の着替えと、わずかな現金、そして粉々に砕けたカメラの残骸が入っているだけだった。
愛用していたカメラ。みのりの笑顔を撮り、幸せな日常を切り取ってきた道具。
裏切りを知ったあの夜、怒りに任せて壁に叩きつけ、レンズを割ってしまった。捨てることもできず、ただその残骸を、未練のように携えていた。
タラップを降りた瞬間、むわりとした空気が全身を包んだ。
東京の乾いた空気とは全く違う、濃密な湿気。
潮の香りと、南国の植物が放つ青々しい匂いが混じり合い、肺を満たす。ぎらぎらと照りつける太陽は、まだ朝だというのに肌を焼くような熱を持っていた。
港は活気に満ちていた。民宿やホテルの送迎バスが客を呼び込み、レンタカー会社のプラカードを持った人々が笑顔で観光客を迎えている。
家族連れのはしゃぐ声、恋人たちの楽しげな会話。そのすべてが、雄志の世界とは無関係の、幸福なBGMのようだった。
彼はどこへ行くべきなのか。
計画など、何一つなかった。ただ、ここではないどこかへ。
日常から、記憶から、自分自身から逃げるようにしてたどり着いた場所。
しかし、逃げた先にあるのは、ただ茫漠とした現実だけだった。
雄志は誰に声をかけるでもなく、港の喧騒から逃れるように、ただあてもなく歩き出した。地図はない。目的もない。
まるでプログラムを失ったロボットのように、足が向くままに、アスファルトの道をたどっていった。
道端には、東京では見られないような巨大なシダ植物が生い茂り、ハイビスカスの赤い花が鮮やかに咲き誇っている。
それらは本来、美しいと感じるはずの風景だった。
かつての雄志なら、きっとカメラを構え、その生命力あふれる色彩に心を躍らせただろう。
だが、今の彼の目には、何も映らなかった。
彼の「美しさを見る眼」は、みのりの裏切りによって完全に破壊されていた。
世界は彩度を失い、すべてが灰色に見えた。鮮やかな花も、深い緑も、ただの物体としてしか認識できない。
どれくらい歩き続けたのだろうか。アスファルトの道が途切れ、視界が不意に開けた。
そして、彼は息をのんだ。
目の前に広がっていたのは、異世界の風景だった。
どこまでも続く、黒い大地。それは砂浜ではなかった。
大昔の火山噴火によって流れ出た溶岩が、海に冷やされ固まってできた、広大な岩礁地帯。南原千畳ヶ浜。
その名前を知ったのは、ずっと後のことだ。
ゴツゴツとした黒い火山岩が、まるで巨大な獣の背中のように、海岸線に沿ってどこまでも広がっている。
生命の気配が、そこだけごっそりと抜け落ちていた。緑も、土も、ほとんど見当たらない。
ただ、黒い岩と、青い空と、打ち寄せる波だけが存在する世界。
ザアァァ……。
一定のリズムで、波が岩に打ち付けては砕け、白い飛沫を上げていた。
その単調で力強い轟音が、雄志の頭の中で鳴り響いていた雑音を、少しずつ洗い流していくようだった。
彼は吸い寄せられるように、その黒い岩場へと足を踏み入れた。スニーカーの底が、ざらりとした岩の感触を伝える。
足場は不安定で、何度かよろめきそうになった。
しかし、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、この荒涼とした風景に、奇妙な親和性を感じていた。
適当な岩を見つけて、雄志はそこに腰を下ろした。背嚢を地面に置き、ただ、目の前の光景を見つめる。
太陽に熱せられた黒い岩が、陽炎を揺らめかせている。
潮風が頬を撫でていくが、それは心地よいものではなく、ただ乾いた感触だけを残していく。
ここだ、と彼は思った。
今の自分の心の中は、きっとこんな風景なのだろう。
希望も、喜びも、愛も、すべてが焼き尽くされ、黒く冷たい岩だけが残った不毛の大地。
時折、記憶という名の波が容赦なく打ち付けては、心を削っていく。
――みのりの笑い声が聞こえた気がした。
違う。それは波の音だ。
――あの男の、傲慢な視線を感じた気がした。
違う。それは太陽の光だ。
フラッシュバックが、現実の風景に重なっていく。
あの高級マンションのエントランスに消えていく二人の後ろ姿。
みのりが雄志に贈ったフォトアルバムが、虚しく部屋の机に置かれている光景。
そして、我を忘れて愛用のカメラを壁に叩きつけ、レンズが砕け散る、あの甲高い破壊音。
すべてが、昨日のことのように鮮明に蘇る。
雄志は両手で顔を覆った。叫びたかった。だが、声は出なかった。涙も、もう出なかった。
感情というものが、身体のどこかからすっぽりと抜け落ちてしまったようだった。
彼の内なる世界は、この南原千畳ヶ浜そのものだった。
荒涼として、空虚で、救いがない。ただ、永遠に続くかのような絶望が広がっているだけ。
不意に、腹の虫が鳴った。生命維持を求める、身体の原始的な要求。昨日の夜から、何も口にしていない。
その事実に気づくと、急に身体から力が抜けていくのを感じた。
雄志は重い身体を引きずるようにして立ち上がり、元来た道を少し戻った。
幸い、大通り沿いに一軒のコンビニエンスストアがあった。
自動ドアが開くと、文明の象徴である電子音が無機質に鳴り響く。
弁当の棚を、感情のない目で眺めた。どれも同じに見えた。何でもよかった。
ただ、空腹という不快な感覚を消し去ることができれば、それで。
手に取ったのは、何の変哲もない幕の内弁当と、一本のミネラルウォーターだった。
レジで無言で金を払い、再び黒い海岸へと戻る。
先ほどと同じ岩の上に座り、弁当の蓋を開けた。白米、焼き魚、卵焼き、煮物。
かつては、みのりが作ってくれた弁当を「美味しい、美味しい」と言いながら食べた記憶がある。
その思い出さえ、今はガラスの破片のように心を傷つけるだけだった。
プラスチックの箸を割り、白米を口に運ぶ。
味が、しなかった。
まるで砂を噛んでいるようだった。米の甘みも、魚の塩気も、卵焼きの優しい風味も、何も感じない。
ただ、物体としての食感だけが、空虚に口の中を支配する。
それでも、雄志は機械的に箸を動かし続けた。食べなければならない。生きるためには。
なぜ生きなければならないのか、その理由は見つけられないまま、ただ本能に従って、食べ物を胃に流し込んでいく。
それは食事というよりも、燃料補給に近い、無味乾燥な作業だった。
すべてを食べ終え、空になった弁当の容器の蓋を閉める。傍らにそれを置き、ペットボトルの水を一口飲んだ。
生ぬるい水が、喉を通り過ぎていく。
再び、彼は水平線に視線を向けた。太陽は少し西に傾き、海面をきらきらと照らしている。その光景は、客観的に見れば美しいのだろう。
だが、彼の心には何の感慨ももたらさなかった。
これから、どうするのか。
今夜は、どこで眠るのか。
この島に来て、一体何をしたかったのか。
答えは、何も見つからない。ただ、圧倒的な虚無感が、黒い溶岩のように彼の心を覆い尽くしていた。
このまま、夜になればいい。そして、この黒い岩に溶け込むようにして、自分という存在が消えてしまえればいい。
雄志は膝を抱え、ただひたすらに、打ち寄せる波の音を聞いていた。
楽園と呼ばれるはずの島は、彼にとって、ただの広大で美しい牢獄の始まりに過ぎなかった。
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