第9話

 智也から手を離し、モップを持ち替えた清掃員の袖口を、智也は咄嗟に見た。


 袖口の肌には何もなかった。


 ホッとした智也は、思わず苦笑した。

 比企野の奇妙な妄想に影響されてしまったらしい。


「知り合いというほどではありません」

 ただ機内で言葉を交わしたことがあるだけ。

 それだけの仲でしかない。


「困っているんですよ」

 清掃員の男は、顔をしかめた。


「この空港へやって来て、ここからどこへも行かずにわたしらのことを監視しておって。掃除道具を入れる倉庫やレストランや、土産物屋の食品庫にまでついてくる――」


 比企野が探りを入れていたというのは、本当だったのだ。


「一度話を聞いてみるとね、なんやらわけのわからない村の話をまくしたてて、わたしらがその村から来たとかなんとか」

「弟さんのことを話してませんでした?」

「そうそう。弟さんがいなくなったとかなんとか」

「それは本当みたいですよ」

 うんざりしたように、清掃員の男は、わめき散らしている比企野を見た。


「どういう事情があるか知らんが、仕事の邪魔をされちゃかなわん。あのとき一度きりかと思ったら、また今日やってきた」


「え? 今日で二度目ですか。僕はてっきり」


 三度目のはずだと思った。

 比企野と同じ便に乗ったのは、三度だったはず。


「あの人に言ってもらえんかね。もうここに来ないように。あんまりこんなことが続くようなら、警察に言おうかって話も出とる」

「――僕にそんなことを言われても」

 困ります。

 そう続けようとしたとき、ふたたびアナウンスが流れた。バスが空港に到着したようだ。


「やっと来たか!」

 思わず呟いた智也は、清掃員の男に会釈した。

「僕はあれに乗りますから」


 なんだ、あんた逃げるのか。清掃員の男の顔にはそう書いてあるように見えた。

 だが、頓着していられない。

 このバスを逃したら、次はいつ空港を出られることか。

 

 すると、比企野が走り寄ってきた。


「この人までさらおうって気だな!」


 清掃員の男は、顔を赤くして怒鳴った。

「いい加減にせんか!」

「騙されないぞ。この人まで鬼にしようとしているんだろ」

 

 二人の間を擦りぬけるようにして、智也はバスの停留所に向かった。

 自動ドアがサアッと開いて、冷たい凍えるような風が吹き付けてきた。

 

 雪はまだ激しく降っているものの、粉雪に変わっている。


 雪を被った大型リムジンバスは、車体後部から白い煙を吐いて停車していた。智也が駆け寄るとドアが開いた。


 乗ろうとした刹那、清掃員の男に腕を掴まれて比企野がやって来た。


「行ってはいけません」

 比企野が叫んだ。

 粉雪が比企野の顔に容赦なく降りつけて、泣いているように見える。


「勘弁してください」

 ほかに何と言えばいいのだろう。比企野に同情を覚えるが、自分に解決できる問題じゃない。


「あんた、逃げるのかね」

 清掃員の男までそんなことを言う。


「逃げるだなんて――。市内へ向かうんですよ。そこから電車に乗って、今夜の宿に向かって――」


「騙されんぞ!」


 比企野が怒鳴った。

「な、何を騙すって言うんです」

「あなたは奴らに丸めこまれたんだ。あんたは朧石へ行き、二度と戻って来ないつもりだろう」


 答える気力はもうなかった。

 雪は激しいし、体は寒さで震えている。

 

 二人を振り払って、智也はバスに乗り込んだ。


「市内まで」

 運転手に切符を差し出し、友惟はバスの通路を進む。

 乗客は後ろのほうに、二人いるだけだった。前から数列目の窓側の席に、智也は倒れこむように坐った。


 助かった。これでやっと空港を出られる。


「逃げないでくれ!」

 そう叫ぶ比企野の声が聞こえたが、やがて乗車口のドアが閉まり聞こえなくなった。


 バスは発車した。


 窓の外を見ると、空港の入口で、清掃員の男に腕を掴まれたまま、バスを見送る比企野の姿が見えた。

だがその姿も、バスが空港のロータリーを出るために大きくカーブすると見えなくなった。


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