第8話 シチルナを襲う悪夢
『シチルナ・キュナント』
彼はキュナント前侯爵の嫡男で、本来は侯爵家を継ぐ筈であった。
幼い時から可愛らしい容姿をしたシチルナは、両親に溺愛されて我が儘放題に育ち、ほぼ王命の公爵令嬢との婚約を嫌がり恋人と逃避行した。
その際に侯爵家の金庫から金を着服し、暫くは好き放題して暮らしていたが、金がなくなると同時に恋人に逃げられた。
共に逃げた男爵令嬢ニテールは、侯爵夫人になれば贅沢ができると思っていた頭の軽い娘だった為、「貧乏なシチルナ様なんて嫌ですぅ~」と生家に戻るのだが、家が潰されていたことは予測もつかなかったようだ。
その後、味方もいないやっかい者となった彼女は、何処かに姿を消している。
シチルナは信じていたニテールが自分から去り、呆然としていた。
「愛していると言った癖に。全部捨ててまで選んだのに、何てことだ。酷いよ!」
自棄になり身に付けている指輪や装飾具を質に入れ、呑んだくれていたところを隣国の貴族(実は間諜)に唆されて、ボルケと言うか侯爵家を狙い始めたのだ。
黒の背広に身を包み、
「突然お声がけを失礼致します、シチルナ様。キュナント侯爵家は本来、貴方のものです。今の侯爵領は豊かで、かなり資金が豊富ですよ。それにデンジャル公爵家も、もう許しているでしょう。
ですが……今の侯爵家は弟さんが継いでいますよね。果たして、一度掴んだ権力をあっさり貴方に渡してくれるでしょうか? 私ならお手伝いできますが、如何しますか?」
「俺は……俺は侯爵家に戻りたい。あの家は、あの家の全ては俺の物だ! 貸してくれよ、あんたの力。俺が家を継いだら、礼金は弾むからさぁ」
「それは嬉しいですね。では、よろしくお願いします」
シチルナは気付いていない。
どうして顔も知らない筈の彼が王都から離れたこの町で、逃亡中の自分を知っているのか、普通の貴族さえ知らない侯爵家の内情を知っているのかを。
ボルケに全て尻拭いさせ、とっくに廃嫡を言い渡されているのに。
侯爵家に潜んでいた間諜も既に見つかり、制裁を加えられている。
ボルケは爵位に執着はないが、彼を慕う領民が不幸になることは望んでいない。だが信頼できる親族に渡すならまだしも、問題しか起こさない
シチルナは実の兄ではあるも、もう何度も裏切られたボルケは見切りを付けていた。最愛の家族が危険に晒されたのだから、我慢も限界である。
ボルケ自身、両親に蔑ろにされ寂しい思いはしたが、そんなことは恨んでいなかった。寧ろ自由があったことで多くの友と出会い、世界が広がった感さえもある。
そんなシチルナは、ボルケの地雷を踏んだ。
「シチルナよ。もう俺はお前を兄とは思わない。お前は敵だ!」
彼は最強の男を敵に回したのだ。
◇◇◇
「ぐわあああぁー! 痛い! ぎゃああああぁ! 助けてくれ!!!」
彼は酷い汗をかいて、ベッドの上で目覚めた。
「はあ、はあ、ゆ、夢? 夢だな? でもすごくリアルで、痛みも強くて」
酷い倦怠感で体が鉛を背負うように重く、止めどない不安は彼の脳裏から離れない。
彼が今いるのは、ダヌクの手配した王都の外れにある小さな邸宅だった。ダヌクの手下である間諜達も、在中している。
利用価値のあるシチルナは守られ、危険等ない状態の筈だった。
けれどボルケには、力強い味方がいる。
転移魔法、固定・呪縛魔法の名手であるリキューだ。
既にその邸宅は、ボルケ達に調査され尽くしていた。
ただ手を出していないだけで。
◇◇◇
リキューはシチルナが入眠した深夜に、彼の寝台に訪れ彼を
眠っている彼は、乱暴に地面に落とされて覚醒する。
「痛っ、な、何だ。ここは何処だ!」
深夜のダンジョンは常闇のようで、明かりのない空間では何も見えない。
けれど人の気配だけは感じる。
夢か現か分からないシチルナに、懐かしい声が聞こえた。
「イスズ、こいつに頭部と首の保護魔法をかけてくれ。即死じゃなければ、治癒魔法で治るだろう?」
「ええ、それはまあ。でも良いんですか、ボルケ? モウドクヨシキリ鮫の牙で咬まれれば、かなりの激痛ですよ」
ボルケとシチルナの関係を知る、彼の弟子兼仲間は心配気に尋ねる。
「良いんだよ。これが俺がこいつに対する私刑だから。ただ絶対に死なせないでくれ。一回で死んで楽にするほど、罪は軽くないから」
「了解です、ボルケ。じゃあ、竿にこいつを括り付けて、ダンジョンの池に落とすよ」
「ああ、やってくれ。鑑定で池に毒はないと確認したから」
ボルケに迷いはないようなので、リキューとイスズでシチルナを水中に送り込んだ。
「ドボーーン!!!」
「うぐぐっ」と、呻いたシチルナは水を飲んで苦しくなり、首をかきむしった。
(苦しい、息ができない、水が冷たい、助けて!!!)
そんな刹那の後、脇腹に鋭い痛みが何度も何度も、電気のように突き走った。
「グアッ、痛い、ゴボボッ、ぐあっ、し、死ぬ、たす、助け、て…………」
次の瞬間。
その痛みのまま、体が大きく宙に浮き上がった。
(お、俺、魚に食い付かれてる。俺より大きな魚に、腹の肉が食われてる! 嘘だろ!!!)
さすがのシチルナも夜目に馴れて、ぼんやり周囲の状況が見えるようになり驚愕した。
「やったね、ボルケ。今日はすぐ釣れたよ。やっぱ弱そうな餌だから、警戒しなかったんだね」
「待っている陸からの魔獣襲撃も心配だったから、早く釣れて良かった。夜の狩りはこれで終了だな」
「ボルケぇ、3人じゃキツいって。今度は孫弟子で良いから、人数増やせよ!」
「悪いな、二人とも。今日はちょっとハードだから、出来るだけ内緒でやりたかったんだよ。水中で怪我とかはひかれそうだからな。次回の人員は増やすよ」
腕を組むリキューは嘆息ながら、「しょーがねえなぁ。まあ気持ちは分かるから、これからも内緒で手伝ってやる」と言い、イスズは「リンダの安全の為なら、いつでも手伝うっす」と肯定的だった。
「グバァ、ガハッ、ゴホッ、ガハッ(痛い、痛い、痛い!!!)」
シチルナを鮫から引き離し、イスズが中級の治癒魔法をかければ、傷は見る間に塞がっていく。
頭部と首の保護魔法を解き、事前に購入しておいた同じ衣類に着替えさせると、リキューは元のベッドへシチルナを空間転移させた。
移動前に睡眠魔法をかけたので騒がれることはなく、風魔法で髪も乾かし、来る前とほぼ同じ状態に見えるように。
リキューは眠る彼を見て、「気の毒だが、自業自得だな。アバヨ!」そう呟いて、ボルケの元に戻った。
(な、何が起きたんだ? これは夢だろ? 現実な訳ない。けど……弟の、ボルケの声が聞こえたような、気が……ああ、もう意識が、沈む………………)
シチルナは心身の疲労により、深い眠りに就いた。目覚めた時は、何も覚えてはいないように細工されながら。
ボルケは依頼通りの、モウドクヨシキリ鮫の牙を手に入れられて満足していた。そしてシチルナにしたことに、罪悪感をさほど感じてもいなかった。
「今度は陸の生物の餌になって貰おう。なに、殺しはしないさ。何度でも死なないように、助けてやる。俺の仲間がな」
寂しく微笑むボルケは、『罪悪感を感じていない』と無理に思い込んでいたが、心の底では血の涙を流していた。家族を憎むのは、とても辛いことだから。
リキューとイスズは何も言えなかった。けれど身内を憎む辛さに、かける言葉はみつからなかった。
今後何度も死にかけるシチルナは、血を多く失うことで徐々に疲弊していくことになる。
シチルナが深層心理で反省し、ボルケに謝罪することを願う仲間達。それは苦しみを抱え込む、ボルケの為だった。
◇◇◇
月に数度、シチルナは生き餌として魔獣に啄まれる。
苦痛はその度に忘れながら。
シチルナに付いている間諜を調べきるまで、彼を死なせることはない。相手を油断させる必要があるから。
それが彼の犯した罪の代償。
けれど裁く方のボルケも、確実にダメージを受けているのだった。
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