花天月地【第15話 ここに在る意味】
七海ポルカ
第1話
部屋の寝台に座り書を読み耽って、少しだけ疲れを感じ読書の手を止め、開け放たれた窓から差し込む夏の明るい空と、陽射しを何気なく見上げていた。
ここは王宮の中でも行政区とは切り離された場所らしく、いつも静かだ。
ただ、行政区はこの下層階で繋がっており、人の活発な出入りはいつも感じる。
忙しく動き回る城の人々の気配を自分は遠くに捉えていた。
その気配を追うと、どうしても――
活発に動き回る人々の気配。
そこから一歩踏み込んで、陸遜の世界を覗き込んで来る人達の顔。
――ガタッ。
だめだと思い陸遜は立ち上がった。
考えてはダメだ。
思い出しては。
他のことを考える為に、気分を変えようと外に出た。
といっても今の陸遜は誰にも会いたくなかったので、廊下側には出ない。
外を歩く時は窓側の回廊に出る。
広大な許都の王宮は、回廊が長く繋がっていて、それだけでもいい運動になるのだ。
少し風に当たって気分を和らげたいと昼下がりの、広々とした石の回廊を歩き出した矢先ふと耳に聞こえて来る。
そこにある階段の下からだ。
詩を作っているようだ。
口ずさみながら、考えて吟味している。
陸遜はそっと回廊から下を覗き込んでみた。
見れば下の回廊の日陰に腰掛けて、水路に泳ぐ小さな魚にエサをやりながら詩っている青年がいた。
深緑の季節。
夏の美しい景色についてどうやら詠いたいようだが、なかなか上手く言葉が出て来ないらしい。
「
彼はしばらく足をぶらぶらさせながら、頭に浮かんで来るものを口ずさんでいたが、自分では気に入らなかったらしく、最後の方は詩を作るのは諦め軽く口笛を口ずさんでいる。
呼ばれて上階の階段から陸遜が下りて来るのを見つけると、
「
彼はここで陸遜の世話をするよう頼まれたらしく、今は部屋に籠って外に出たがらない陸遜が過ごしやすいよう、出会ってから二週間ほどよく心を砕いてくれる。
彼はまだ二十歳半ばで、陸遜とはさほど年齢は変わらない。
だから呼び捨てで構わないと言ったのに、彼は「兄上からお世話を頼まれた方を呼び捨てになど出来ません」といい、律儀に「伯言様」などと呼んで来る。
その際、何か欲しいものはないか聞いておくのである。
それ以外の時は、呼ばれない限り司馬孚は陸遜の部屋――正確には
呼ばれた時にはすぐさま駆けつけられる場所だ。
陸遜はそれが、きっとあまり姿を見せて自分に気を遣わせてはいけないという青年の気遣いなんだろうなと気づいていて、感謝した。
起きる気力がなくなり一日中伏せっていたり、そうでなくとも椅子に座ってずっと膝を抱えて俯いていたいことがある。
しかしそれとは別に、そういう情けない姿を人には見せたくないという気持ちもあるから、いつ司馬孚が現われるか分からないと思うだけでも、陸遜は一日中気を張ってしまうのだ。
司馬孚はそういうことに早い段階から気づいてくれた。
「どうかなさいましたか」
「いいえ。少し身体を動かそうと思って、歩いていたら詩が聞こえて来たので……」
彼は途端に真っ赤になった。
「す、すみません。下手な詩をお聞かせしまして……」
「いいえ。いいんです。詩人になりたいのですか?」
陸遜が小首を傾げて尋ねると、司馬孚は更に赤面した。
「いっ、いえ! そんな大層なものでは……! 私は勤勉だけが取り柄の平凡なので、役場に仕えて二つ三つ昇進をし、あとは分不相応な欲など出さず、生きて行ければと思っています……!」
慌ててそんな風に説明した司馬孚を目を瞬かせて見てから、陸遜はもう一度少しだけ首を傾げた。
司馬孚は赤くなった自分の顔を自覚し、困ったように片手で摩りながら小さく息をついた。
実際に目覚めた陸遜と初めて言葉を交わしたのは二週間前で、この青年と司馬孚が兄によって引き合わされたのはそれから一月も前のことだ。
司馬孚がこの
しかも彼は
自分がほとんど世話が出来ず、力になれず申し訳ありませんと
「今は好きにさせてやれ」とそう声を掛けるだけだ。
しばらくは全く話したりすることが出来なかったので、司馬孚は眠り続けるこの美しい青年がどこか冷たく近寄り難い、人を遠ざける性格をした人なのかもしれないと誤解をしたほどである。
一月ほど過ぎたある日いつものように部屋を気にしながらも、回廊で本を読みながら勉強をしていた司馬孚は声を掛けられた。
現われた陸遜は司馬孚が思い描いていた人物像とは全く異なり、礼儀正しく穏やかで優しい声で話す、そういう青年だった。
彼はまずこの一月あまり司馬孚が世話をしてくれていたことを知らず、礼も言わずにいて申し訳ないとそのことを謝った。
それからは、陸遜は朝の挨拶に行くといつも穏やかに微笑んで司馬孚を迎えてくれるようになった。
あまり長居はしないようにしようと気を付けながらも、
司馬孚は兄の言いつけを守ってこの謎めく素性の青年のことを、何かその背景を暴くような質問は決してしなかった。
陸遜が返答に困らないような、そういう話をする。
好きな書物や、好きな食べ物や、ここでの生活を整える為に、役に立つことだ。
出身などは聞かなかった。
今まで何をしていた人なのかもだ。
陸遜は司馬孚がそうしていることと、そうする意味をきちんと知っているようだった。
彼は聡明な人なのだ。
兄の司馬懿も凡人が恐れ戦くような秀才だが、その兄が重んじるほど陸遜は素晴らしい才を持った人なのだ。
それを他人に見せることに躊躇いも無い兄とは違い、奥ゆかしい性格をした陸遜は、自分の秀でているということをひけらかさない性格をしている。
それでも司馬孚が何かを言った時に、彼が理解する以上のことを陸遜が察して、優しい顔で聞き手に回ってくれているのだと、そう感じることが何度もあった。
歳は司馬孚より数歳下だと聞いてはいたが、同年代とは思えない深みのようなものが陸遜にはあった。
司馬孚はすぐに彼を深く慕うようになった。
司馬孚にとっては畏れながらも慕うべき兄である
「その……」
陸遜は人が話したくないことを無理に聞き出すような人ではなかったが、人の顔をじっと見る人だったので相手によるだろうが、この青年の人柄に深く心惹かれている司馬孚にとっては、彼の穏やかな直視に晒されると、何となく話してしまう。
「実は、今月の宿題の題材が夏の美しさを詩にするというものでしたので」
陸遜は不思議そうな顔をした。
「今月の宿題?」
はい。と司馬孚は頷く。
「学院の宿題でしょうか?」
陸遜の世話をする為に兄に呼び戻されて学院での勉強は休学中だというから、陸遜は尚更彼に悪いことをしているという意識がある。
「ああ、いえ。学院ではなく……実は、学院で何と言いましょうか、気の合う友人同士で切磋琢磨し合いながら付き合える、私塾のような集まりを作っていまして」
「集まり……勉強会のようなものでしょうか?」
「はい。そんな立派なものではありませんが……」
司馬孚は少し苦笑した。
「私達の学び舎には、色んな土地から学ぶ者達が集まっていました。
呉という名が出て、密かに陸遜はドキとしたが司馬孚は気づかなかった。
「
任官を受けて――もちろん家族などが国に住まう者達は、学びを終えて故郷に戻って行くことも多く。
それで私たちはこういう勉強会を自分たちで作り、所属し、そんなに頻繁にはさすがに会えませんが……でも三年後、五年後、機会があった時には友人たちに会って話せる、そういう場所を作りたかったんです」
「そうなのですか。それは素晴らしいことですね」
「はい。それで、会えなくても繋がりは持っていようと定期的に文の遣り取りをしていまして、ただの文の遣り取りではつまらないからと、各々がこなす宿題を三月に一度。題材が回って来るんです。
勉強会が開かれる時には、その会わなかった期間でこなした宿題を各々が発表し合って……まあ下手だの面白いだの、言い合うわけですね。
約束をしているんです。違う国に行った友とも、
『天下が
聞いていた陸遜は優しい顔になった。
ここは
陸遜にとっては曹魏というのは倒すべき敵だった。
特別強い憎しみを持ってそう思っていたというわけではないけれど、揺るぎない事実として「敵だ」という意識があった。
だから当然のことではあったけれど、それでも曹魏に生きる彼らにも会いたい友がいて、大切にする仲間がいて、想い合うということが新鮮に感じられた。
私達もそうだったと思い出そうとする胸の内を押さえ込み、あえて考えないようにして、陸遜は優しい表情で
胸には切ない感覚だけが残った。
自分はもう、帰る場所はないのだ。
「……あの……、」
陸遜に見つめられ、司馬孚は徐々に真っ赤になって行った。
随分経ってから陸遜が気付く。
「すみません。つい見つめてしまって」
「いえ……」
赤面している。
「他意は無いつもりなのですが
「すみません」
陸遜はくすくすと笑った。
「ただ……なんだかとてもいいなあ、と思ったんです」
「……?」
陸遜はまだ見慣れない、
美しい、真新しい石造りの城。
そこに住まう、ただ魏に生まれ落ちた『だけ』の人々……。
この地に生まれ落ちたら、自分も何の迷いもなく――
(それともやはり、それでも魂はあの
呉のことを思い出そうとすると四肢が強張り、身体が拒絶するようになったのを感じる。
思い出してはいけない、
忘れるんだ、
忘れなければもうここでは生きていけないと、本能が知っている。
曹操の許に仕官を望み――
例え曹魏に生まれ落ちても、孫策や周瑜の魂に惹かれることは果たして全く無かったのか。
(生まれ落ちただけの人生だったのか)
死に物狂いで今まで、生きて来たと思う。
陸家でさえ気を許せない相手だったから、陸遜にとって安堵出来る家はいつしか
あそこに戻れば迎えてくれる人がいると、そう思えた。
絆はあると信じていたけど、
でも自分は心が折れた途端呉ではない、こんな地にいる……。
その程度のものだったのだろうか。
あの見捨てられない、決して見捨ててはいけないんだと思い続けてきた使命感は一体、どこに行ってしまったのだろう。
陸遜は今、ひたすら虚しかった。
(ただ生まれ落ちたところが呉だったから)
だから私は人生を賭けたのだっただろうか?
孫策。
周瑜。
彼らも――そうだったのだろうか?
『……陸遜……、泣くな』
あの時握り締めた孫策の手の熱さと、命が尽きた時に不意に軽くなった気がしたことも。
死に行く
父親の仇を必ず取ると彼は情熱を燃やした。
その烈火のような想いは時を重ねて和らぎ、彼の憎しみより、何かを守りたいという志を照らし出した。
……彼はただ呉に生まれ落ちたからあれほど重いものを、背負っていたのだろうか?
投げ出したいと願いながら?
嫌々、あそこに留まるしかなかったのだろうか?
ぞわ、と背筋が凍り付いた。
――
彼は、呉の者ではない。
他の地に生まれ落ちて上手く生きれず、やがて呉に辿り着いた。
最初から持っている者はその有難みに気付くのは難しいかもしれないが、
彼は元々『持たざる者』だった。
唐突に溢れ出した涙が伝う。
顔を覆った手の平を浸す、それは後悔の念だった。
(
あの男は、生まれ落ちた場所からどこかへ行きたくて、もがき続けてきた。
甘寧は最初から龐統を嫌っていて、陸遜自身それなら仕方ないと思い込んでいたが、
甘寧を必死に説き伏せても、龐統と話してやってくれと願えばよかった。
なにものにも縛られず生きる――それを実践する甘寧こそ、龐統に伝えられる何かがあったはずなのに。
(甘寧殿――!)
誰か、じゃない。
甘寧に龐統を『会わせてやりたかった』。
ここじゃないどこかでも生きれることを、龐統に、陸遜には教えられなくても甘寧ならば伝えられる。
炎の気配を足元から立ち上らせて、龐統は自分を待っていた。
取り戻したい時と、取り戻せない時と。
時々微かにだけども、
龐統の心が流星のように動いて、自分の側に来ている気配を感じたことはあったのだ。
だが、陸遜は掴まえられなかった。
逃してしまった。
黒い
(わたしが、死なせた)
彼はきっと心のままに生きたと、そう信じたいとずっと祈って来たけど、
誤魔化せない。
誤魔化せない事実だから、多分……自分はここにいるのだ。
この、見知らない地に。
何の理由もない。
人はただ生まれ落ちた所で運命に心を開き、生きていくしかないのならば。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます