第13話『母の声が聞こえる日』



「日向、今日も診療室?」


玄関で靴を履いていると、母が心配そうに聞いてきた。


「うん、ちょっとだけ」


「最近、帰りが遅いわね。彼氏でもできた?」


「ちがっ! そんなんじゃない!」


日向の顔が真っ赤になった。翠くんの顔が一瞬頭に浮かんで、さらに赤くなる。


「あら、その反応は怪しいわね〜」


母がニヤニヤしながら近づいてきた。でも――


日向は息を呑んだ。


母の背中に、薄い灰色の影が張り付いている。まだスピリットになりきってない、想いのかたまり。


「お母さん……」


「ん? どうしたの?」


母はいつも通りの笑顔。でも、その笑顔の下に別の顔が見える。泣いている、本当の母の顔が。


「なんでもない。行ってきます」


「気をつけてね」


学校への道すがら、日向はずっと考えていた。


母のスピリット、どうしよう。このままだと、完全なスピリットになっちゃう。


でも、家族の想いって、すごく複雑で――


「日向ちゃん、おはよー!」


「きゃっ!」


りんちゃんに肩を叩かれて、日向は飛び上がった。


「もう、驚かさないでよ」


「ごめんごめん。でも、すっごいボーッとしてたよ?」


「ちょっと考え事」


「翠くんのこと?」


「ち、違う!」


また顔が赤くなった。


(なんで翠くんのことだと思われるの!?)


放課後、日向は診療室に行かずに真っ直ぐ家に帰った。


翠には「今日は用事がある」って伝えてある。心配そうな顔をしてたけど、これは自分で何とかしなきゃ。


家に入ると、キッチンから包丁の音が聞こえてきた。


「ただいま」


「あら、早いのね」


母は振り返って笑った。エプロン姿で、今日の夕飯の支度をしている。


「今日はハンバーグよ。日向の好きなチーズ入り」


「やった!」


日向は精一杯明るく返事した。でも、母の影はさっきより濃くなってる。


夕食の時間。


「そういえば、今日スーパーで山田さんに会ったの」


母は楽しそうに話す。


「あの人、またフラダンス始めたんですって。この歳で!」


「へー、すごいね」


でも日向は気づいていた。母のお皿のハンバーグ、ほとんど減ってない。


「お母さん、食べないの?」


「え? あー、お昼にちょっと食べすぎちゃって」


嘘だ。


母の影が、ぐにゅっと形を変えた。泣き顔が、もっとはっきり見える。


食後、リビングでテレビを見ていた母の隣に、日向は座った。


「お母さん」


「なあに?」


「最近、無理してない?」


母の笑顔が、一瞬固まった。


「何言ってるの? お母さん元気よ」


「本当に?」


「本当よ。それより日向こそ――」


「お母さん!」


日向は母の話を遮った。


「わたしのせいで、ずっと我慢してるでしょ」


「……!」


母の顔から、笑顔が消えた。


「お父さんがいなくなってから、お母さんはずっと笑ってた。でも知ってるよ。夜中に、一人で泣いてたこと」


「日向……」


「わたしが小さい頃、お母さんが泣いてるの見て、すごく怖かった」


日向の声が震えた。


「だから、いい子にしてなきゃって。お母さんを悲しませちゃダメだって」


母の目に、涙が浮かんだ。


「違うの、日向。お母さんは――」


「お母さんも同じでしょ?」


日向は母の手を握った。


「わたしのために、強いお母さんでいなきゃって」


母は何も言えなかった。ただ、涙をポロポロこぼした。


「ごめんなさい」


母が震え声で言った。


「"ごめんね"って言いたかったのは、私の方だったんだ」


「え?」


「日向に心配かけたくなくて、明るいお母さんでいようって。でも、それが余計に日向を苦しめてた」


母の影が、激しく揺れた。泣き顔と笑顔が、ぐちゃぐちゃに混ざり合ってる。


「本当は、すごく寂しかった」


母は顔を覆って泣いた。


「お父さんがいなくなって、一人で日向を育てるのが不安で。でも弱音なんか吐けなくて」


「お母さん……」


「日向が笑ってくれるのが嬉しくて。でも、その笑顔が無理してるってわかってて。どうしていいかわからなくて」


日向も泣いていた。


お互いのために、お互いが我慢してた。相手を思うあまり、本当の気持ちを隠してた。


「お母さん」


日向は母を抱きしめた。


「もう、我慢しなくていいよ」


「でも……」


「わたしも泣くから。一緒に泣こう?」


「日向……」


「嬉しい時は一緒に笑って、悲しい時は一緒に泣けばいいんだよ」


母は日向を抱きしめ返した。


そして二人は、子供みたいに声を上げて泣いた。


何年分の我慢。何年分の「大丈夫」って嘘。全部、涙と一緒に流れ出した。


いつの間にか、母の影は消えていた。


代わりに、部屋が優しい光に包まれてる。春の日差しみたいな、温かい光。


「日向」


泣き腫らした顔で、母が微笑んだ。


「ありがとう。やっと、素直になれた」


「わたしも」


二人は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で見つめ合って、ぷっと吹き出した。


「ひどい顔!」


「お母さんだって!」


笑いながら、また少し泣いて。


その夜、日向は久しぶりに母と一緒にお風呂に入った。


「ねえ、さっきの彼氏の話だけど」


「だから違うってば!」


「でも、誰かいるんでしょ?」


母の勘は鋭い。


「えっと……」


日向は湯船に顔まで沈んだ。ブクブクと泡を立てる。


「ほらー! やっぱりいるんだ!」


「いるっていうか、その……」


翠くんの顔を思い出して、また顔が熱くなる。お風呂のせいじゃない。


「どんな子? クラスメイト?」


「ちがう。3年生」


「年上! いいじゃない!」


母が目を輝かせた。まるで女子高生みたい。


「かっこいいの?」


「うん……すごく」


日向は小さな声で認めた。白銀の髪、透明な青い瞳、守ってくれる時の頼もしさ――


「きゃー! 日向の顔、真っ赤!」


「お母さん!」


二人でキャーキャー騒いでいると、なんだか親子じゃなくて友達みたいだった。


翌日の診療室。


「家族の想いも、診療できるんだね」


翠が優しく微笑んだ。日向は昨日のことを報告したのだ(お風呂の話は除いて)。


「うん。でも診療っていうより、ただ一緒に泣いただけだけど」


「それが一番大切な診療だよ」


翠は窓辺に立って、外を見つめた。夕日が白銀の髪を金色に染めてる。


(やばい、かっこいい……)


「日向?」


「え!? な、なに!?」


慌てる日向を見て、翠が不思議そうに首を傾げた。


「顔、赤いけど大丈夫?」


「だ、大丈夫! 全然平気!」


その時、シロがピョンピョンと日向の周りを跳ねた。まるで「にやにや」してるみたい。


「シロまで!」


「?」


翠には日向の動揺の理由がわからないらしい。その鈍感さに、日向は安心したような、もどかしいような。


「ねえ、翠くん」


「ん?」


「翠くんも、誰かと一緒に泣いたことある?」


翠の手が、一瞬止まった。


「……さあ、どうだろう」


その横顔が少し寂しそうで、日向は思い切って言った。


「もし泣きたくなったら、言ってね」


「え?」


「わたしが一緒に泣いてあげる。お母さんとしたみたいに」


翠は驚いたように日向を見た。そして、ふわっと微笑んだ。


「ありがとう」


その笑顔があまりにも綺麗で、日向はまた顔が赤くなった。


(もうダメ。完全に好きになっちゃってる)


でも、それを言う勇気はまだなかった。

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