第6話『見ないでノート』
――見ないで。お願い、見ないで。
放課後の図書室。西日が本棚に血のような赤い影を落としていた。日向は資料を探しながら、ふと足元に視線を落とした。
黒いノート。
表紙には何も書かれていない。でも、触れた瞬間に分かった。これは、誰かの心の闇だ。
「触らないで!」
絶叫が響いた。でも誰もいない。声は、ノートから聞こえてきた。
背筋が凍る。手が震える。でも、なぜか手放せない。
「これは……」
「スピリットだね」
振り返ると、翠が立っていた。白銀の髪が夕日に染まって、まるで炎のように揺れている。長い前髪の隙間から覗く透明青の瞳が、いつもより暗い。深海のような、底の見えない青。
「でも、ただのノートにしか――」
言いかけて、息を呑んだ。
ノートから黒い靄が立ち上る。それは人の形を作り、顔のない影となって立ち上がった。全身に文字が浮かび上がる。
『見ないで』『読まないで』『知らないで』『消えたい』『死にたい』
文字が増殖していく。部屋中を埋め尽くすように、壁を這い上がっていく。
「すごい怨念……!」
「違う」
翠の声が震えていた。初めて聞く、感情の籠もった声。
「これは恐怖だ。純粋な、見られることへの恐怖」
スピリットが絶叫する。声にならない叫び。でも、日向の心に直接響いてくる。
――お願い、見ないで。本当の私を知ったら、みんな離れていくから。
診療室への移動中、廊下で何人もの生徒とすれ違った。でも誰も、日向が抱えている黒いノートに気づかない。スピリットは、見られたくないものを「見えなくする」力があるのかもしれない。
診療室に着くと、翠はいつもと違う場所に立った。窓際ではなく、日向のすぐ隣。近い。白衣から香る、雨上がりのような匂い。
「このノートの持ち主を探さないと」
日向がページを開こうとした瞬間――
「やめて! やめて! お願い! 死んじゃう! 見られたら死んじゃう!」
スピリットが暴走した。黒い文字が津波のように押し寄せる。
『お母さんなんて大嫌い』
『どうして私ばっかり』
『クラスのみんな全員消えればいい』
『リストカットしたい』
『もう生きてる意味がない』
日向は凍りついた。これは……誰かの本音。誰にも言えなかった、心の叫び。
そして気づいた。自分も、同じようなことを考えたことがある。母が心を病んでいた時、「お母さんなんていなくなればいい」と思った瞬間が。すぐに打ち消したけど、確かにあった。
「翠くん、これ……」
振り返ると、翠がノートを見つめたまま動かない。
その瞳から、涙が一筋流れていた。
「翠くん?」
翠は慌てて涙を拭った。でも、頬は濡れたまま。
「……ごめん。少し、懐かしくて」
「懐かしい?」
「僕も昔、こんなノートを持っていた」
翠の告白に、日向の心臓が跳ねた。完璧に見える翠にも、こんな過去が?
その時、廊下から足音が聞こえた。走ってくる音。でも、途中で止まる。迷っている。
ドアがゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、美咲だった。いつも地味で目立たない女子。でも今は違う。顔は涙でぐちゃぐちゃで、制服はよれよれ。そして何より、その目。
死んだ魚のような、光を失った目。
「私の……ノート……」
声がかすれている。
「返して……お願い……」
美咲が一歩踏み出した瞬間、膝から崩れ落ちた。
「もう、終わり。全部、ばれちゃった」
日向は美咲に駆け寄った。
「何があったの?」
「昨日、机の中に隠してたノートが……朝、教室の黒板に……全部、貼り出されてて」
美咲の声が途切れる。
「『美咲ちゃんってこんなこと考えてたんだ』『気持ち悪い』『親に見せた方がいいんじゃない?』って……みんな、スマホで写真撮って……もう学校中に……」
美咲が顔を覆う。指の隙間から、涙がこぼれ続ける。
「お母さんにも見られた。『あんたを産まなきゃよかった』なんて書いてたの、見られた。お母さん、何も言わなかった。ただ、私を見て……泣いてた」
スピリットが美咲を包み込むように広がる。守ろうとしているのか、それとも一緒に消えようとしているのか。
「もう死にたい。消えたい。なかったことにしたい」
日向は美咲の手を取った。氷のように冷たい手。
「気持ち悪くなんかない」
「え?」
「誰だって、言えない気持ちを持ってる。私だって」
日向は深呼吸をした。これを言うのは、勇気がいる。でも――
「私も、お母さんが憎かった時がある。お母さんが心を病んで、私のこと見てくれなくなって。『お母さんなんて死ねばいい』って、思ったことがある」
美咲の目が見開かれる。
「日向さんも?」
「うん。でも、それを書くことで、少し楽になれたんでしょ? 吐き出さないと、壊れちゃいそうだったから」
美咲の目から、新しい涙があふれる。でも、さっきとは違う涙。
「そうなの……書かないと、苦しくて……でも、書いたら、もっと苦しくなって……」
翠が静かに口を開いた。
「見られたくない気持ちほど、本当の自分が詰まってる」
美咲が翠を見上げる。
「だから、それを否定しなくていい。黒い感情も、醜い考えも、全部君の一部。それを認めることから、始まるんだ」
「でも、みんなに知られて……」
「知られたっていい」
翠の言葉は、確信に満ちていた。
「本当の君を受け入れてくれる人は、必ずいる。その黒い部分も含めて、君という人間を愛してくれる人が」
翠が日向を見た。一瞬、視線が交わる。
その瞬間、日向は理解した。翠も、誰かに本当の自分を受け入れてほしいと思っているんだ。
スピリットが変化し始めた。黒い文字が、少しずつ薄くなっていく。そして、新しい文字が浮かび上がる。
『助けて』『寂しい』『愛されたい』『分かってほしい』
それは、呪いの言葉じゃない。ただの、人間の叫びだった。
「私……もう隠さない」
美咲が立ち上がる。
「苦しい時は苦しいって言う。お母さんとも、ちゃんと話す。私がどんなに苦しかったか、伝える」
スピリットが光になって消えていく。最後に、小さな声が聞こえた。
『ありがとう』
美咲は真っ白になったノートを抱きしめた。
「これからは、違うことを書く。今日みたいに、分かってもらえたこととか」
美咲が帰った後、診療室に重い沈黙が降りた。
「翠くん」
日向が切り出す。
「さっきの涙……」
「君に会う前の僕は、美咲さんと同じだった」
翠の告白に、日向の息が止まる。
「誰にも本当の自分を見せられなくて、ノートに全部書いてた。でも、ある日……」
翠の声が途切れる。
「それ以上は、まだ言えない。ごめん」
「ううん。いつか、聞かせて」
日向は翠の手を取った。
冷たい。でも、確かに震えている。
翠も、怖いんだ。本当の自分を見せるのが。
でも、いつか。いつか必ず。
窓の外で、夕日が沈んでいく。今日もまた、一つの心が救われた。
でも、日向の心には新しい決意が生まれていた。
翠の心も、救いたい。
たとえ翠が、どんな闇を抱えていても。
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