放課後スピリット診療室
ソコニ
第1話『幽霊診療室、開院。』
「ねぇ、知ってる? 校舎裏の鏡の部屋で、女子が消えたって」
放課後の教室に、ひそひそ声が響く。天ヶ瀬日向は窓際の席で、その噂話を聞くともなく聞いていた。
「えっ、マジで?」
「3年の先輩が見たんだって。古い鏡の前に立ったら、鏡の中に引き込まれて――」
「やだ、怖い!」
クラスメイトたちの声が遠い。日向は校庭を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
――消えるって、どんな感じなんだろう。
「日向!」
突然名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねた。親友の早乙女りんが、心配そうな顔で覗き込んでいる。
「もう、また聞いてなかったでしょ? 最近ずっとぼーっとしてるよ?」
「ごめん」
「一緒に帰ろ? 今日こそクレープ食べに行こうよ!」
りんの誘いを、日向は申し訳なさそうに断った。
「ごめん、今日はちょっと……」
「また?」りんの声が少し尖る。「日向、私のこと避けてる?」
「そんなことない」
嘘だった。最近、人といるのがつらい。笑顔を作るのも、楽しそうに振る舞うのも、全部が重い。
教室を出て、日向は足の向くまま歩いた。気がつくと、校舎裏の薄暗い場所にいる。
――ここが、噂の場所か。
古い校舎の端に、確かにドアがあった。『旧保健室』と書かれたプレートは錆びついて、今にも落ちそうだ。
なぜか、引き寄せられるように手を伸ばす。ドアノブは冷たく、でも不思議と懐かしい感触がした。
ギィ、と音を立てて扉が開く。
部屋の中央に、大きな姿見の鏡があった。埃まみれの部屋なのに、鏡だけは磨き上げられたように輝いている。
日向は鏡の前に立った。映っているのは、疲れた顔の自分。栗色の髪はぼさぼさで、黒縁眼鏡の奥の目は死んだ魚みたいだ。
「……最悪」
つぶやいた瞬間――
鏡の中の自分が、笑った。
日向は、笑っていない。
「えっ――」
後ずさろうとした瞬間、鏡の表面が水のように波打った。そして、中から何かが――いや、誰かが手を伸ばしてきた。
「きゃああああ!」
叫び声を上げて尻もちをつく。心臓が早鐘のように打っている。
「ああ、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」
聞こえてきたのは、穏やかな男の声。顔を上げると、見たことのない男子生徒が立っていた。
白銀の髪が月光のように輝いている。長い前髪で右目が隠れていて、見えている左目は透き通るような青。制服の上に真っ白な白衣を羽織った、不思議な出で立ち。
「君は……?」
「柊翠。3年生だよ」
翠と名乗った先輩は、優しく微笑んだ。でも、その笑顔のどこかに、言いようのない違和感がある。まるで、笑い方を真似しているような――
「ここは僕の診療室でね。君には"資質"があるみたいだ」
「資質?」
翠が鏡を指差す。日向がもう一度見ると、そこには――
「うわあああ!」
また叫んでしまった。鏡の中に、自分以外の"何か"がうじゃうじゃといる。
ぼんやりとした人影、泣いている子供、怒った顔の大人、寂しそうな老人――数え切れない"それら"が、鏡の向こうでひしめき合っていた。
「な、なにこれ……」
「スピリットだよ」
翠が一歩近づく。その瞬間、日向の鼻に甘い香りが届いた。花のような、でも少し腐敗したような、不思議な匂い。
「人の強い想いが形になったもの。悩み、後悔、恋心、憎しみ……そういった感情が、目に見える形で現れたんだ」
「信じられない」
「でも、見えてるでしょう?」
確かに見えている。否定したくても、目を閉じても、瞼の裏に焼き付いて離れない。
翠が手を差し出した。その手は、異常なほど白い。
「天ヶ瀬日向さん」
「えっ、どうして私の名前を」
「君のことは知ってるよ。ずっと見ていたから」
背筋が凍った。ずっと見ていた? いつから? どこから?
「僕の診療助手になってくれないか?」
「は?」
「ここは、スピリットたちを診る場所。彼らの声を聞いて、持ち主の心を癒す。それが僕の――いや、僕たちの仕事になる」
鏡の中のスピリットたちが、一斉にこちらを見た。その瞬間、日向の耳に無数の声が雪崩れ込んできた。
『たすけて』
『くるしい』
『さみしい』
『にくい』
『あいたい』
『ごめんなさい』
『ゆるして』
頭が割れそうになる。耳を塞いでも、声は止まらない。
「やめて!」
日向が叫ぶと、声がぴたりと止んだ。
「すごいね」翠の目が輝く。「普通の人なら、これだけの声を聞いたら気を失ってしまう。やっぱり君には才能がある」
「才能なんていらない!」
日向は立ち上がり、出口に向かおうとした。でも翠が、その腕をつかむ。
冷たい。氷みたいに冷たい手。
「待って。君も救われたいと思っているだろう?」
その言葉に、日向の足が止まった。
「な、何を言って――」
「君の中にもスピリットがいる。ずっと昔から」
振り返ると、翠の顔がすぐ近くにあった。青い瞳に吸い込まれそうになる。
「小さい頃、見たんでしょう? 誰も信じてくれなかった"あれ"を」
記憶の奥底から、忘れていたはずの光景が蘇る。
――5歳の時。母親が倒れた日。病院の廊下で見た、真っ黒な影。それは母親の後をついて回り、母親を飲み込もうとしていた。
「お母さん、危ない! 黒いのがいる!」
でも誰も信じてくれなかった。子供の妄想だと笑われた。
そして母親は、心の病気になった。
「あれは、君のせいじゃない」
翠の声が、優しく響く。
「君はただ、見えてしまっただけ。でも、もし君に力があれば、お母さんを救えたかもしれない」
「やめて」
日向の目から涙がこぼれた。ずっと自分を責めていた。あの時、もっと強く言えば。もっとちゃんと説明できれば。
「君なら、他の人を救える。そして――」
翠が日向の頬に手を当てる。
「君自身も、救われる」
その瞬間、日向の中で何かが決壊した。
「……分かった」
自分でも驚くほど、あっさりと答えが出た。
「助手、やってみる」
翠の表情が、ほんの少し歪んだ。喜びとも、別の何かとも取れる複雑な表情。
「ありがとう。君となら、きっとうまくいく」
握手を交わす。翠の手は相変わらず冷たいけれど、今度は不思議と心地よかった。
「明日の放課後、またここに来て。最初の診療を始めよう」
「うん」
部屋を出ようとしたとき、翠が不意に言った。
「そうだ、日向さん」
「なに?」
「君が5歳の時に見た黒い影……あれは今も、君の中にいるよ」
全身の血が凍りついた。振り返ると、翠はいつもの優しい笑顔を浮かべている。
「でも心配しないで。僕たちが、必ず救ってみせるから」
そう言って、翠は鏡の中に吸い込まれるように消えていった。
一人残された日向は、震える足で診療室を後にした。
廊下を歩きながら、さっきの翠の言葉が頭の中でぐるぐる回る。
――黒い影が、まだ私の中にいる?
帰り道、夕焼け空が血のように赤かった。明日、また来ることになる。あの不思議な診療室に。あの不思議な先輩のところに。
怖い。でも、なぜか心が騒ぐ。
これは始まりなんだ。私と、翠と、見えない"彼ら"の物語の――
家に着いて自分の部屋に入ると、鏡台の前で足が止まった。
そっと鏡を覗き込む。映っているのは、いつもの自分だけ。
でも――
一瞬、自分の影が二重に見えた気がした。
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