『売女』

志乃原七海

第1話「生きてゆくためなんだよ……!」



第一話。バカにするんじゃないよ


安っぽい香水の匂いが、湿った空気と混じり合って鼻につく。男の重みがのしかかり、軋むベッドのスプリングが、あたしの耳元で単調なリズムを刻んでいた。


「お前みたいな女は、こうされるのが好きなんだろ?」


汗ばんだ耳元で囁かれた言葉に、奥歯を強く噛みしめる。返事はしない。ただ、早くこの時間が終わることだけを願う。目を閉じれば、天井のシミが万華鏡みたいに歪んで見えた。


ドアが閉まり、無機質なロック音が響くと、あたしは堰を切ったように溜まっていた息を大きく吐き出した。ベッドサイドに無造作に置かれた数枚の紙幣。それが今日のあたしの「価値」。それをひっつかむと、シャワールームへ直行した。


熱い湯を頭からかぶる。男の匂いも、触れられた感触も、すべて洗い流してしまいたかった。ゴシゴシと肌が赤くなるまで擦っても、こびりついた何かが剥がれ落ちる気はしない。


「……バカにするんじゃないよ」


誰に言うでもなく、声が漏れた。鏡に映る自分は、ひどく疲れた顔をしていた。目の下の隈は、化粧でも隠しきれない。


バカにするな。好きでやってると思うな。あんたたちが払うはした金で、あたしは息をしてるんだ。あんたたちが当たり前に享受している「明日」を、あたしはこれで買ってるんだよ。


心の中で、何度も罵倒を繰り返す。


シャワーを終え、よれたTシャツとジーンズに着替える。コンビニで買った冷めたパスタが、いつもの夕食だ。テレビをつける気にもなれず、ただフォークを口に運ぶ。味なんてしない。


窓の外は、もうすっかり夜の帳が下りていた。きらびやかなネオンが、この街がまだ眠らないことを告げている。あの光の中に、昔のあたしが夢見た「普通の生活」があるんだろうか。大学に通って、友達と笑い合って、バイト先で淡い恋をして……。そんなありふれた幸せは、父親が作った借金と共に、あっけなく消え去った。


フォークを置き、スマートフォンを手に取る。指が勝手に、ある男のSNSを開いていた。


『拓也』


大学のサークルの先輩だった。いつも優しくて、あたしみたいな日陰の女にも、分け隔てなく笑いかけてくれた人。彼のページには、楽しそうな仲間たちとの写真や、仕事の充実ぶりを綴った投稿が並んでいる。眩しくて、目を細めた。そこに、あたしの居場所はない。


「……会いたいな」


呟きは、がらんとした部屋に吸い込まれて消えた。

言えない。言えるわけがない。こんな身体で、彼の前に立てるはずがない。


あたしは、しがない、淫売女。

周りは勝手にそう呼ぶ。

だけど、それでも。


あたしは、明日も息をして、この街で生きていく。


「生きてゆくためなんだよ……!」


もう一度、自分に強く言い聞かせる。まるで、そうしないと心が折れてしまいそうだったから。

窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていく。誰かの不幸を知らせるその音が、不思議とあたしの孤独に寄り添ってくれているような気がした。

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