ハートスワップ
センダバンダ
第1話 [影として育ち、名を失くした]
王の名を讃える鐘の音が、山の向こうから微かに届いていた。
この国では、王に名を与えられた者だけが、“生きている”とみなされる。
血筋も、過去も、願いも関係ない。
その名にふさわしい力があるか、それだけだ。
そして私は、その名を奪われた。
村の夕暮れは穏やかだった。
小さな商取引を終え、私は荷馬車の荷台に腰を下ろしていた。
焚き火の匂いと共に、土の温もりが伝わる。
ここは北東の交易路沿いにある「ミルラの村」。
収穫期を迎えるこの土地は、農産物と工芸品の集積地としてにわかに賑わっている。
けれど、どこかよそよそしい。
誰もが笑顔を保ちながら、見知らぬ者に深く踏み込ませまいとする。
それは、よく知っている感触だった。
——まるで“存在しないもの”を見る目だ。
かつて私は、名を持っていた。
“男”として育てられ、剣を握り、跡継ぎとしての訓練を受けた。
父母にとって、私は都合のよい存在だったのだろう。
世間には隠され、でも確かに“家”に必要とされた。
だがある日、すべてが終わった。
南方の名家から、見目麗しく優秀な少年が「養子」として迎え入れられたのだ。
私の名は口にされなくなった。
誰も私を「家の者」として数えなくなった。
用済みになった道具は、燃やされもせず、ただ黙って片隅に置かれた。
それでも、私は立ち止まらなかった。
旅に出た。名のないまま、地図のない道を歩いた。
“誰かの代わり”ではなく、“私自身”として何かを得るために。
夜になり、荷馬車の上に薄布をかける。
寝床の準備をしようと手を伸ばしたとき、微かな息づかいに気づいた。
「……誰?」
覆いの下には、ひとりの少女……いや、年齢も性別も曖昧な者が眠っていた。
白い髪、草の香りをまとい、まるで風そのもののような佇まい。
その人は目を開けると、あくびを噛み殺しながらこう言った。
「イフミー。君は?」
「……名はないよ」
「じゃあ、これから決めるといい」
笑って言ったその顔は、どこか“神さま”のように思えた。
彼女(かれ)は、ミルラの村に“神様”として祀られていたという。
けれど、農業が発達し、人々が祈らずとも生きられるようになったとき、
その存在は忘れられ、遠ざけられていった。
「祈られなくてもいい。でも、忘れられるのは、ちょっとね」
そう言った彼女の声には、私と同じ寂しさがあった。
私は名を失った。
イフミーは役目を失った。
そして今、ふたりは、同じ馬車の上にいる。
「南のほうに、帰る場所があるんだ」
彼女はぽつりと言った。
私は頷いた。理由なんていらなかった。
——帰りたい場所があるなら、きっとそこに戻るべきだ。
私には、そんな帰る場所はない。
でも、なぜだろう。
彼女を連れていきたいと思った。
そのとき、久しく忘れていた言葉が、胸に浮かんだ。
「わたしは、帰るよ。わたしであるために」
それが、旅の始まりだった。
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