それぞれの場所で、それぞれの思い

 未紗季にとって、社会人六年目の春がやってきた。

 入社してから初めての異動、広報部の一員となる。

 新たな所属の広報部ブランドマーケティング課では、サブリーダーという肩書きもついてきた。少しくすぐったくなる気持ち、特に大きな意味のない肩書かもしれないが、名前負けと言われないように、と未紗季はより一層気を引き締めた。

 そして、お世話になった川上課長に挨拶をする。

「おはようございます。今日から広報部に異動します。今までお世話になり、ありがとうございました。」

「慣れるまでは大変かもしれないけど、あなたならどこへ行っても大丈夫よ。どんな環境でも、必ず百パーセントの力を発揮できると信じてるから。」

 川上課長は相変わらず落ち着いた口調で、未紗季をじっと見つめた。

「それに、広報部に行くってことは、今よりもっと会社の『顔』になるってこと。変に気負わず、でもちゃんと意識して、仕事しなさい。」

「課長のおっしゃること、肝に銘じます。」

 胸がいっぱいになりながら深く頭を下げ、次は朱音のもとへ。

「未紗季、行っちゃうんだね。」

「うん。大丈夫?私がいなくても。」

 未紗季の言葉に、朱音はため息をつきながら、ふっと笑う。

「立派に成長した私に任せて!寂しいけど、広報部でも頑張ってね。」

 朱音らしい激励をうけ、ちょっと笑いながらも、未紗季は改めて背筋を伸ばした。

 こうして、ブランド戦略課での五年間が終わり、新しい道が始まる。


 今日は入社式。今年も新しい顔ぶれが入社してくる。

 そして……日向が二年ぶりに広島から戻ってくる。

 日向の異動の知らせを聞いたのは、数日前。未紗季自身が自分の辞令を受け取った日だった。彼もまた、今春から新しい環境でのスタートを切る。勤務地は大阪支店ではなく、少し離れたサテライトオフィス。

 関西エリアマーケティング部の所属で、日向は主任になった。

(日向も主任になって、私たち同期、もっともっと頑張らないとな。)

 未紗季が広報部で、日向がサテライトオフィスで。それぞれの場所で、新しい一歩を踏み出そうとしている。

 日向は異動の手続きや引っ越しなどで、大阪に本格的に戻るのはもう少し先になるらしい。

『落ち着いたら連絡する』と短いメッセージをもらったきり、まだ直接話せていなかった。

(早く会いたいな。綾那さんも喜んでいるだろうな……)


 広報部での初めての週が過ぎ、未紗季は少しずつ新しい環境に慣れ始めていた。新しい仕事は覚えることが多く、戸惑う場面もあったが、忙しさがむしろ気持ちを前向きにしてくれた。

 昼休みの食堂の一角、少しの人だかりができていた。その中心にいたのは、日向だった。

「よう日向!久しぶり。」

「広島での生活、どうでした?」

「サテライトって聞いたけど、今日はこっちなのか?」

 彼の周りには懐かしい顔ぶれが集まり、和やかな空気が流れていた。広島支店へ異動して二年。みんなが日向との再会を喜んでいるようだった。

「おっ!」

 日向が未紗季を見つけた。視線が合い、まっすぐこちらへ歩いてきた。

「久しぶり。」

「……うん、久しぶり。」

 二年ぶりに交わす言葉。変わらない空気を感じながら、二人は向かい合って座った。

「未紗季も異動あったんだって?」

「広報部のブランドマーケティング課。サブリーダーだよ!」

「そうか、広報か。」

「で、日向は広島はどうだった?」

「まぁ、忙しかったけど、その分充実してたよ。でも戻れるって決まったときは、やっぱりホッとしたけどな。」

「サテライト勤務なんだってね。」

「一応主任だってさ。出先機関ってことは、また違った忙しさがあるんだろうな。」

「じゃあ、あんまり支店には来ることないの?」

「今日は午後からサテライトの所属元の関西エリアマーケティング部で打ち合わせがあるから、その前に元のプロモーション企画部へあいさつ行ってきた。定期的に支店の部内で打ち合わせあるみたいだし、ちょいちょい来ると思う。」

「そうなんだ。またこうやって時々食堂で会えるね!」

「だな。」

 そう言いながら、日向は笑っていた。久しぶりの会話はとても心地が良かった。

「そうそう、綾那さん。日向が戻ってきて喜んでるでしょ?」

 次の瞬間……日向の表情が曇った。そして少し目を伏せて、ため息をついた。

「実は、別れたんだ。」

「えっ!?」

 日向は苦笑しながら肩をすくめた。

「忙しさにまぎれて、連絡がおろそかになった。そんで、そのまま……。」

「だから言ったじゃない、まめに連絡してあげてって。私みたいな思いをさせないでって。」

「……。」

 日向は何も言えなかった。二年前、広島へ行く前に、未紗季にそう忠告されたことはもちろん覚えている。

あのときは「俺らは大丈夫」なんて言っていたくせに、結局、未紗季と慎二のときと同じような結末を迎えてしまった。

「一応、こっち戻ってすぐに連絡はしたんだけどな。」

「綾那さん、何て?」

「もう新しい彼氏いるって。」

「そう……なんだ。」

「俺が悪いんだしな。」

 日向は努めて軽く言ったが、その声には寂しさが滲んでいるのが分かる。未紗季は何も言えなかった。

「まあ、しゃーないな、こっちはこっちで、頑張りますか!」

 日向は食事を終え、立ち上がった。

「そろそろ行くわ。」

「そっか。……がんばって。」

「お前もな。」

 日向は軽く手を上げ、食堂を出て行った。

 未紗季は彼の背中を見送りながら、何ともやりきれない気持ちになった。


 異動から一ヶ月。広報部の仕事は、企画部とはまた違った角度で会社と向き合い、刺激的だった。

 一方、日向は定期的に大阪支店に来ていた。支店の部内での打ち合わせは、朝一から昼までというのが多く、そんなときには、昼休みに未紗季と社内の食堂で顔を合わせるのが恒例になっていた。

「広報の仕事はどう?」

「慣れるまで大変だったど、少しずつ、段取りが分かってきたところかな。」

「そっか。まあ、お前なら大丈夫だろ。」

 そんな何気ない会話を交わしながら、二人は食事を続ける。

「日向こそ、サテライトはどうなの?もう慣れた?」

「ん?まあな。まだまだ覚えることは多いけど、また違ったやりがいがあるな。」


 新しい環境にも徐々に慣れ始め、未紗季は広報部での仕事に本格的に取り組んでいた。

『今日は定時で上がれそうだから、久しぶりに夕飯でも一緒にどうだ?』

 日向から未紗季にそう連絡が入り、仕事帰りに合流した。お互いに忙しく、こうしてゆっくり話せるのは久しぶりだ。

「最近、サテライトでちょっとした噂になってんだぜ。」

 食べながら、日向がふと口にする。

「噂?」

 未紗季が首をかしげると、日向は苦笑して続けた。

「仕事中、未紗季からしょっちゅう電話がかかってくるし、今日も帰りに一緒に飯って……絶対付き合ってるだろってな。」

 思いがけない言葉に、未紗季はむせながら答えた。

「えー、なにそれー!」

 二人で顔を見合わせて大笑い。

 入社してすぐ、日向には彼女がいると知っていた。だから、最初からそういう目で見ることはなかった。でももし、彼女がいなかったら……?

 今こうして気を許せる間柄になって、当たり前のように二人で食事をしている。もしこのまま付き合っても、特に不自然なことでもないような気もする。

(いやいや、何考えてるんだろう、私。)

 日向はというと、少し遠くを見ていた。

(きっと、まだ綾那さんのこと忘れられていないよね。)

「ところで、慎二からなんか連絡あったか?」

 未紗季はハッと我に返った。

「ないよー。きっともう、私のことなんて忘れてる……。」

 明るく言ったつもりだった。でも、口にした瞬間、自分でもわかるくらいしんみりしてしまった。

「おまえもさ、もう慎二のこと忘れて、新しい彼氏でも作れよ。」

 日向はそう言って、軽く笑う。いつものように、冗談交じりの軽い調子で。

「実はね、つい最近まで付き合ってた人、いたんだよ。」

「え? 意外だよ。まさか慎二以外に……なんて。」

 日向が驚いたように未紗季を見る。

「日向が広島に行くタイミングで、大阪に異動してきた人でね。それでまた日向と入れ違いで、今度はアメリカに行っちゃって……。まあその異動きっかけで別れたっていうか。」

「ふーん。」

 日向は何か思うところがあったようだが、特に口には出さなかった。

「べつに、誰とも付き合わず、に慎二を待ち続けてるってわけじゃないんだよ。」

 そして自分に言い聞かせるように言った。

「ただ……『帰ったら話そう』って言葉があったから。慎二が帰ってきたら、ちゃんと話をしたいとは思ってる。」

(誰かと付き合うのは、全然いい。でも、慎二が帰ってきたときに、日向と付き合ってるっていうのだけは、なんとなくありえない……)

 未紗季がそう思いながら、ふと日向を見ると、彼もまた何かを考えるような顔をしていた。

(もし俺が綾那のことを吹っ切っていたら……未紗季と付き合うということも、自然な流れかもしれない。でも、慎二のことを考えると……。いや、それ以上に、俺はまだ綾那のことを忘れられないでいる。)

「そっか。」

 日向はそう呟き、静かに笑った。未紗季も微笑み返す。二人とも心の奥に浮かんだ思いを、そっとしまい込んだ。心の底に複雑な思いを抱えながらも、それでも二人は大切な友人であることに、変わりはなかった。


 ある日のサテライトオフィス。男性社員が、未紗季から日向への電話を取り次いだ。

「藤原主任、支店広報部の高宮さんからお電話です。」

 日向は「お、サンキュ」といつもの調子で未紗季からの電話を受けた。もちろん仕事の要件だったが、今日も帰りがけに一緒に食事に行こう、ということで話は終わった。

 電話を取り次いだ男性社員――佐藤颯也が日向に声をかけた。

「前から気になってたんですけど……。藤原主任って、支店の高宮さんと、付き合ってるんですか?」

「え?」

 この春、日向が広島から戻りサテライトオフィス勤務になったのと同時に、颯也もこのサテライトに異動になり、日向と一緒に働いていた。日向は颯也が未紗季と知り合いだとは知らない。

「ほら、噂になってますよね?」

「お前まで言うか。」

 日向は苦笑するしかなかった。

(そう、それにあの日……。入社式の後の食堂で見た、泣いていた高宮さんの前にいたのは、間違いない、藤原先輩だ。最初に一目見てすぐに思い出したんだ。)

「僕も何度か高宮さんからの電話を取り次いだことありますけど、いい雰囲気ですよね。今日も仕事終わり食事の約束してたみたいですし。」

 日向は、照れながらもきっぱりと否定した。

「ないない、ただの同期だよ。」

 そして少し間を開けて、付け加えた。

「それに、俺なんか眼中にないよ、あいつは。待ってるやつがいるからな……。」

 最後のほうは、日向はまるで自分に言い聞かせるかのようにつぶやいた。

 颯也は一瞬、驚いたような顔をし、それから納得したように頷いた。

「そうか、そうですよね……。」

(やっぱり、アメリカに行った佐々木さんのこと、待ってるんですよね……。)

 颯也は入社して最初の上司、佐々木圭吾を尊敬していた。その圭吾の恋人である未紗季が、アメリカに行った圭吾を待っているのは当然のことだろう。

 日向の言う「待ってるやつ」は当然、慎二のこと。どうやら、ここで二人の思いは違う方向を向いていたようだ。

「お前、ひとの電話盗み聞きしてないで、ちゃんと仕事しろよ!」

 最後は照れ隠しのようだった。

 颯也にとって日向は、圭吾とは全く違うタイプだが、明るく気さくな尊敬できる先輩だ。日向と未紗季の帰りがけの約束がないときは、一緒に飲みに行く、ということもよくあった。頼れるアニキ的存在、颯也は日向のことをそう思っていた。日向も、明るく素直で頑張り屋の颯也を、後輩としてかわいがっていた。サテライトオフィスで、いいコンビとしてやっているようだ。


 未紗季が広報部に異動し、二年の月日が流れ、八回目の春を迎えた。「サブリーダー」から「チームリーダー」へと昇格し、また新たなステージが始まることになる。

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