【大人のファンタジー】主人(あるじ)語り
@TakaraMaru
1夜|ベランダの犬
都会の真ん中にある10階建ての古いマンションのベランダからは、緑に覆われた森が見下ろせた。
そこは寺という場所であると、幼くて何も知らない仔犬のボクに、旅のカラスが教えてくれた。
当時のボクは背丈が低く、台に乗ってようやくと、頭をベランダのフェンスの上から覗かせることができた。そこから眺める景色がボクは好きだった。
見下ろすと、ビルや家の屋根などの街並みが、モザイクのように広がっているのが見えた。どこまでも広がって、どこまでも続いている。森はその中央にあった。ボクに森のことを教えてくれたカラスは、そこに住んでいた。とは言っても、仮の宿であった。カラスたちは季節ごとに、そろって旅をする。そして季節の終わりに、都会の外れにある、仲間のネグラに帰っていくのである。
森を見下ろすボクの毛並みを、初夏の風が撫でたとき、目の前をカラスの影が通り過ぎた。そして空中で速度を落とし、旋回すると、隣の部屋のベランダに止まり羽を休めた。
ボクたちはいつも通りに挨拶を交わした。
「調子は、どうだい?」
「なかなか楽しいよ!ママさんも、お姉ちゃんも、パパさんも、皆親切にしてくれる!」
「そうか、そいつは大したものだな」
カラスは笑みを浮かべながら、羽づくろいを始めた。
そのカラスは親切だった。ボクはいろいろなことを教わった。
この都会の向こう側には、異なる世界がある。カラスの故郷の雑木林には争いごとはなく、平和な世界のようだ。その点都会は、食べ物は豊富にあるくせに、住み心地が悪いという。とりわけ、子育てには向いていないらしい。
――都会の人間はたちが悪い。
と言って、カラスはいつも眉をしかめているのだ。
季節が過ぎて旅の終わりに、カラスが別れの挨拶に訪れた。そして最後に忠告をしてくれた。
「人間には気を許さない方がよい。あいつらは実に自分勝手な生き物だ。信じすぎると痛い目をみるぞ」
ボクは猛反発をした。ボクの家族はみんな良い人なのだ。ママさんだって、お姉ちゃんだって、パパさんだってーー。どこがどうと言われても困るのだが、兎に角みんな、ボクの大切な家族なのだ!
そう告げるとカラスは苦笑いを浮かべ、「お前と喧嘩して別れるのは忍びない。そうならないことを祈っている」といって飛び立っていった。
◇
ボクを飼うと言い出したのは、お姉ちゃんのヒナタちゃんだった。どうやらボクは珍しい種類の犬らしい。お姉ちゃんが一番推しているアイドルが飼っている犬と同じということだ。それが、お姉ちゃんの自慢だったりするらしく、家に友達を連れてきては、その前でボクのことをほめちぎるのだ。
ボクの朝は、ご飯を済ませた後の、お姉ちゃんの見送りから始まる。お姉ちゃんは毎朝ランドセルを背負って学校へ出かけた。見送りのためだろうか、パパさんもお姉ちゃんと一緒に家を出る。
二人揃って出かけるクセに、パパさんだけ帰りが遅いのは不思議である。
ボクの日課である散歩は、もっぱらパパさんの役目だ。ママさんは忙しすぎる。お姉ちゃんはボクのリードを持ちきれない。何しろボクの御先祖は、荒野を駆け回る狩人だったので体力には相当に自信があったりする。
なので、ボクはパパさんの帰りが待ち遠しくて仕方がない。帰りの時間になると、玄関が開いた瞬間、ダッシュして出迎える。
パパさんは支度を整える。お風呂が先か、ご飯が先か、散歩が先かをママさんに聞かれると、大抵は散歩が先になる。ご飯と一緒にお酒をゆっくり飲みたいので、早めに済ませてしまおうと思うのだ。
パパさんの着替えが整うと、エレベーターという名の上下に動く鉄の箱に乗って、ボクたちは1階まで一直線に降りる。そしてリードをグイグイ引っ張って、ボクはアスファルトの歩道に飛び出していく。
一つ先の角を曲がると、ここからは、森への一本道だ。ボクは電信柱にマーキングをしながら、森へ森へと急ぐ。
一歩森に踏み入るとアスファルトが途切れて、土の道が現れる。ボクは下草を掻き分けて、周囲の匂いを嗅ぎまわる。土と草の香りが強く漂う。木々の緑の放つ呼気も感じる。
見上げれば、こんもりと葉が茂っている。枝にカラスが止まっていた。ボクはカラスに話しかけた。
しかしそれは、あのカラスであろうはずもなかった。
◇
育つにつれてこの家は、ボクにとって、少しずつ手狭になっていった。
決してボクのせいではないと思うのだが、ちょっとばかり、体が大きくなりすぎたようだ。
ある日お姉ちゃんが、「こんなはずではなかった・・・」と愚痴を漏らしたことがあった。すると、ママさんが大声でお姉ちゃんを叱り飛ばした。
「いい加減にしなさい!飼いたいって言ったのはヒナタなのよ。生き物を何だと思っているの!次言ったら許さないわよ!」
お姉ちゃんはふくれ面になったが、「わかってるよ・・・・ちょっと言っただけじゃない・・・・」と言いながら、ボクの目をじっと見た。ボクも上目遣いでお姉ちゃんのことを、じっと見つめた。
するとお姉ちゃんの表情が緩んで、ボクのオデコに手を置いた。
「そんなの、わかってるよ!」
お姉ちゃんの笑顔が嬉しかった。
あるとき、お姉ちゃんが熱を出して、学校を早引けしたことがあった。
ボクが出迎えたときにはすでにフラフラだった。ママさんから「自分の部屋で寝なさい」と言われても、リビングのソファーまでたどり着くのがやっとだった。
倒れ込んで寝てしまったお姉ちゃんを、ママさんは体温計で熱を測ったり、おでこを冷やしたりして看病をしていたが、薬屋さんにでも行くのだろうか、「すぐ帰るからね」と言い残して出かけてしまった。
ところがこんな日に限って、早い時間にパパさんが帰ってきた。
パパさんは時々こんなことがある。前回のときは、徹夜明けだと言っていた。今回は、どうなのか・・・
事情を知らないパパさんは、リビングで寝ているお姉ちゃんに声をかけた。しかしお姉ちゃんは、目を覚す気配がない。
暇を持て余したパパさんは、テレビの音でうるさくするわけにもいかないーーとばかりに、「散歩にでも行くか!」とベランダからボクを連れ出した。
早い時間だったせいかもしれないが、この日パパさんは入念に散歩をしてくれた。ボクは大満足して、足取り軽く帰宅した。
しかし家に誰もいない・・・変だとは思ったが、パパさんは何も思わなかったようだ。誰もいないのをいいことに、テレビを見ながらお酒をグラスに注ぎ始めた。
しばらくすると玄関のドアが開いた。二人分の気配がする。ボクは玄関にダッシュした。
ところが二人は、ボクの顔を見て、悲鳴を上げるではないか。二人が驚くのを見て、ボクの方がビックリしたほどだ。まるでお化けでも見るような顔つきだった。お姉ちゃんに至っては、大声で泣き始めてしまった。
悲鳴を聞いてパパさんも駆けつけた。ほろ酔い状態なので顔が赤い。ママさんが目を見開いた。そしてすごい剣幕で怒鳴った!
「何やってるの?どこに行ってたのよ!」
「どこって、散歩に・・・・」
ママさんは絶句して、次の瞬間脱力したようにへたり込んだ。
「買い出しから帰ったらロンがいないので、ベランダから落ちたと思ったじゃないの!」
顔を真っ赤しながらに責め立てるママさんの横で、熱で顔を真っ赤にしたお姉ちゃんがボクの首筋を抱きしめた。
「よかった!ペチャンコになってなくて!生きてて、よかった!」
真相は、こうだった。
ママさんは、買い出しを済ませると、急いで家に帰った。
しかし、ベランダにボクの姿がない。そのはずだ。そのときボクはパパさんと一緒に散歩の真最中だったのだから。
ママさんは熱でうなっているお姉ちゃんをたたき起こした。しかし、ぐっすり寝ていたお姉ちゃんは、パパさんが帰ったことを知らない。
二人は青ざめた。
――ベランダから落っこちたのかもしれない!?
そしてつい先ほどまで、マンションのコンシェルジェさんと一緒に、一階の敷地内をくまなく探し回っていたのである。
お姉ちゃんはボクの首筋にしがみついたまま大声で泣き続けた。顔は涙でグチャグチャだった。ボクは優しいお姉ちゃんに感謝した。お姉ちゃん顔は涙でしょっぱかった。
◇
そんな暮らしが続いたある日、ママさんが長い留守をしたことがあった。今度も旅行か何かだろうと思っていた。こうしたことはたまにある。でも大抵の場合、ママさんが留守だと、家の中をパパさんとお姉ちゃんがダメダメにしてしまう。
――そうならないうちに、早く帰ってきて欲しいものだ。
ボクはのんきにそう思っていた。
それにしても、随分と長い旅行だった。家の中もダメダメになり始め、困ったと思い始めた矢先、ママさんがひょっこりと帰ってきた。
それも赤ちゃんを連れて!
赤ちゃんはノハラちゃんと言う名前だった。
赤ちゃんを見るのは初めてだった。石鹸のような、ミルクのような良い香りがした。挨拶代わりに舐めたいと思ったが、叱られそうなので諦めることにした。
ベビーサークル越しに目が合うと嬉しくなった。小さな手のひらがグーパー、グーパーを繰り返す。それを眺めるボクのことを見て、ノハラちゃんは嬉しそうに笑った。ボクたちはウマが合いそうだ!
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