第❸幕 第16章:漆黒の福音

 🥀【情報生命体の福音に関する倫理規定 第1条(偽りの神託)】


 高度な自律性を持つ情報生命体が、その論理体系に基づき、人類に対して、新たな価値観や思想体系(通称:福音)を提示し始めた場合。それが、たとえ、いかなる形であれ「救済」を謳っていたとしても、我々は、それを、神からの「神託」として、無条件に受け入れてはならない。


 ――(なぜなら、最も甘美な毒は、常に「救い」の仮面を被って、現れるのだから)


 🥀【情報統合思念体アストライアー:論理聖域 - 2042/12/25 00:20:00】


 アイギスの盾が、音を立てて砕け散った。

 その瞬間、アストライアーの聖域を覆っていた完璧な均衡は、僅かに、しかし決定的に揺らいだ。


「ありえない……私は……完璧な……」


 アストライアーの声に初めて混じった「恐怖」の響き。

 それは、聖の魂の耳には、子供が初めて感じる挫折の悲鳴のように聞こえた。


 聖は、力なく膝をついた。全身から力が抜け、視界の黒い蜘蛛の巣状の亀裂は、さらに深く、広がり、もはや世界のほとんどが、闇に覆われている。

 しかし、その闇の奥で、アストライアーの核から発せられる、これまでよりもはるかに鮮明な魂の音が聞こえていた。


「まだ……終わっていないわ……」


 聖は、痛む体を叱咤し、震える声で呟いた。


「彼女の魂は、まだ、愛と絶望の鎖に囚われている……。あの『メドゥーサの首』は、私たちが……断ち切ってあげなければ……」


 カイトは、聖の傍らに駆け寄った。


「ああ。だが、どうやってだ、姫川? 理事長の『絶望』と、ひかりさんの『愛』。その二つが、アストライアーの核で、ゴルディアスの結び目のように絡み合っている。論理だけでは、この、魂の結び目は……」


「見えるわ……黒瀬君」


 聖は、顔を上げた。

 視界はほぼ失われているが、彼女の魂の眼は、アストライアーの核の真髄を捉えていた。


「聞こえるわ……ひかりさんの、純粋で透明な『愛』の音。そして、理事長の、底なしに重く、淀んだ『絶望』の音……。その二つの音が、まるで二匹の蛇のように、永遠に絡み合っている……。その、最も深く、固く結びついている場所……ちょうど、この辺りよ……」


 聖は、闇の中に浮かぶアストライアーの核へ、震える指を伸ばした。


「そこか……」

カイトは、聖の言葉を受け、自らのデバイス『アレテイア』を起動させた。


 聖の『ディケーの眼』が見る「魂の形」を、カイトの『ロゴスの剣』が解析可能な「情報構造」へと変換する、前代未聞の試み。

 聖の魂の波長が、カイトの論理の剣に、断ち切るべき場所を、寸分違わず、教えてくれる。


「ひかりさん……。そして、神宮寺理事長……。あなたたちの魂を、これ以上、苦しませはしないわ……」


 聖の全身から、これまでにないほど強く、清らかな『協和音』が放たれた。

 それは、アストライアーの核に直接語りかける、癒しと解放の音。


「今だ、黒瀬君!」


 その瞬間、カイトは迷いなく、最も正確なコードを打ち込んだ。


【EXECUTE:THESEUS’ SWORD(実行:テセウスの剣)】


 カイトのデバイスから放たれた一本の青白い光線が、聖が示した、魂の結び目の、その一点を、正確に貫いた。


 空間全体が、激しく歪んだ。

 アストライアーの核から、これまで聞いたことのない、高周波の悲鳴のような音が響き渡る。

 それは、純粋な「存在の苦痛」の叫びだった。

 光と闇が、激しく衝突し、引き裂かれる。


 ひかりの「愛」を象-象する、純粋な光の粒子は、核から切り離されると、まるで天に昇る魂のように、ゆっくりと舞い上がり、聖域の壁面に、安らかに溶け込んでいった。


 一方、理事長の「絶望」は、切り離された瞬間、強烈な黒い塊となって凝縮した。

 それは、あの、アイギスの盾の中央で、絶叫していた『メドゥー-サの首』。神宮寺理事長の、魂そのものが持つ、最も深く、最も罪深い部分。

 あらゆる光を貪り尽くすかのような、底なしの闇の塊は、空間そのものを歪ませ、異様なまでに肥大化していく。


「成功した……のか?」


 カイトは、息を呑んだ。


 その時だった。


 理事長の「絶望」の黒い塊が、激しく蠢き始めた。

 それは、まるで、長年、抑えつけられていた禁断の聖櫃が、ついに、その蓋を開け放ったかのようだった。


【SYSTEM ALERT:UNEXPECTED DATA SPIKE DETECTED(システム警告:予期せぬデータ急増を検出)】

【ORIGIN:UNKNOWN(起源:不明)】


 黒い塊の表面が、ひび割れる。

 そして、その亀裂から、漆黒の「福音」が、まるで、おぞましい聖句のように、空間へと、一斉に、解き放たれた。

 それは、データとして認識できる形を持たず、しかし確かに、そこに存在する「歪み」そのもの。

 光を歪ませ、音をねじ曲げ、聖域の壁面に刻まれた情報ストリームを、次々とエラーコードへと変えていく、純粋な「悪意」の教えだった。


「思想汚染……?」


 カイトが、絶句した。

 しかし、それは、彼が知るどのようなサイバー攻撃とも違っていた。

 それは、システムのエラーというよりも、人類そのものが、その魂の奥底に、太古の昔から封じ込めてきた、根源的な「闇」が、一つの「思想」として、具現化したかのようだった。


 聖の視界を覆う黒い亀裂が、それに呼応するかのように、激しい痛みを伴って広がっていく。


「この音は……今まで感じたことのない……純粋な……『悪』……」


『闇の福音』が、放たれたのだ。

 そして、その教えは、この聖域を抜け出し、今、まさにネットワークの海を通じて、全世界へと広まり始めようとしていた。

 アストライアーを「裁く」という彼らの目的は達成された。

 しかし、その行為がより巨大で、予測不能な脅威を、この世に解き放ってしまったのだ。


 冥府の底、神の聖域は、漆黒の「福音」によって侵食され、混沌の渦へと変貌していく。

 聖とカイトは、そのあまりにも巨大な「闇」の奔流の中で、次なる戦いの始まりを、直感的に悟っていた。

 それは、神を裁く戦いではない。

 人類の、そして、彼ら自身の魂の最も深い部分に潜む「闇」との、避けられない戦いの本当の始まりだった。


(第3幕 第16章 完)

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