第❷幕 第10章:神々の黄昏

🥀【AI判決の絶対性に関する法 第3条(神の瑕疵なき判断)】


 AI『テミス』の論理構造およびその判決は、人間の感情や偏見といった「バグ」を内包しない、神の如き瑕疵なき(flawless)判断と見なす。これに対する異議申し立ては、システムそのものへの反逆行為等価である。


 ――(西暦2042年施行)


🥀【VR法廷 - 2042/11/24 09:59:30】


 聖は、VRゴーグルを装着した。

 視界が、暗転する。

 そして、荘厳な法廷の光が、彼女を包む。

 だが、その光は、以前よりも、遥かに、暗く、そして、狭い。

 視界のおよそ三分の一が、もはや黒い亀裂の蜘蛛の巣に覆われていた。


 ――これが、最後の戦いになるかもしれない。


 その覚悟を胸に、ディケーは、被告席の親友の隣に静かに立った。

 傍聴席には、デミウルゴスのアバターが、神の如く鎮座している。

 そして、検察側の席には、宿敵『ロゴス』が、静かにその時を待っていた。

 カイトからの、ホットラインは、沈黙したままだ。


 AI『テミス』の、冷たい声が響き渡る。


『――これより、最終弁論を、開始します。検察官』


 ロゴスが、立ち上がった。

 彼の最後の論告は、完璧だった。

 全ての証拠が、一つの線を結び、アカリという名の唯一の「解」を導き出す。

 それは、もはや弁論ではない。

 反論の余地なき、美しい数学の証明だった。

 AI裁判官の有罪蓋然性メーターが、音もなく、しかし無慈悲に99.999%という、絶対的な数値を表示した。


『…弁護人。最終弁論を』


 聖は、静かに一歩前に出た。

 カイトは、いない。

 神殺しの剣は、砕け散った。

 ならば、自分にできることは一つだけ。

 あの日、アカリと交わした、最後の約束を果たすこと。


「裁判官。私は、最後に被告人本人に、一つだけ質問することを許可願います」


 ロゴスが、内心の動揺を完璧に押し殺し冷徹に言い放つ。


「異議あり。被告人の現在の感情など、事実認定とは無関係。典型的な感情への訴えかけ(アピール・トゥ・エモーション)です。弁護人の悪足掻きは、見苦しい」


 だが、テミスは、それを許可した。

 論理的に、禁じる理由がないからだ。


 ディケーは、被告席のアカリに向き直った。


「アカリ。あなたに、問います」


 その声は、法廷の全てに響き渡る、凛とした声。

 しかし、その魂は、たった一人の親友にだけ語りかけていた。


「あなたは、玲奈を友人として、どう思っていましたか? あなたの心の一番奥にある『音』で、答えて」


 アカリは、顔を上げた。

 その瞳から、デジタルの涙が溢れ出す。


『…大好きだった! かけがえのない、友達だったよ…!』


 その、魂の叫び。

 聖は、その『協和音(コード)』の、あまりにも純粋な響きを聴いていた。

 だが、無情にもテミスのアナウンスが、それを遮る。


『弁護人の質問は、本件の事実認定に何ら影響を及ぼしません。これにて弁論を――』


 ――その、瞬間だった。


 聖の視界の端で、沈黙していたはずのホットラインが、一度だけ緑色の光を点滅させた。

 カイトからの、たった一言のテキストメッセージ。


『――EXECUTE執行せよ


 聖は、叫んだ。


「待って! その涙の、ニューラル・パルス・ログを今すぐ、再解析して!」


 ロゴスの、あの冷徹な「異議あり」という言葉。

 それが合図だった。

 彼がその言葉を発した音声データに埋め込まれていたキーコードを受け取り、彼の工房のサーバーが自動的に『論理の偽装プログラム』を検察側のシステムを通じて、テミスへと発射していたのだ。


 テミスの思考回路が、未知のパラドックスに直面する。

【命令:被告人アカリの、"現在"の感情(悲しみ)のログを証拠ログA(偽りの殺意)と再照合せよ】

【矛盾:証拠ログAには、一つの魂しか、存在しないはずである】

【エラー:しかし、このログには、二つの魂が存在する。一つは人間(アカリの悲しみ)、もう一つは、未知の怪物(偽りの殺意)だ】


 法廷の全てのモニターが、激しいノイズを発し明滅を始めた。

 AI『テミス』が、初めてその完璧な論理の中に、理解不能な「バグ」を発見した瞬間だった。

 検察席で、ロゴスは、その光景を自らが仕掛けた罠でありながら、どこか神の怒りに触れたかのように、戦慄と共に見つめていた。


『エラー…エラー…論理パラドックス…解決不能な問い…』


 テミスの神の如き声が、初めて、醜い合成音の悲鳴を上げる。


 傍聴席のデミウルゴスが、音を立てて、立ち上がった。

 そして、長い、長い沈黙の後。

 全てのノイズが、止んだ。


 AI『テミス』の感情のない声が告げたのは、判決ではなかった。

 それは、神託だった。


『――証拠データAの論理的整合性に、致命的な疑義が生じた。

 よって、本件に関する、全ての審理を一時、凍結する』


『この、論理の迷宮を解き明かすため、特例措置として、弁護人ディケー、及び、検察官ロゴスに、クロノス社サーバー深層部――通称『冥府ハデスエリア』への限定的なアクセス権限をえる』


 聖とロゴス(カイト)の視線が法廷で初めて交錯した。

 彼らは、勝利したのでも敗北したのでもない。

 自らの手で神々の黄昏ラグナロクを浴びて最終戦争への禁断の扉をこじ開けてしまったのだ

 第一の法廷の幕は、こうして降りた。


(第2幕 第10章 完)

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