第❷幕 第4章:疑念のラビュリントス

 🥀【共謀及び司法妨害に関する特則法 第2条(非合法的協力関係)】


 犯罪捜査の対象となっている事件において、被疑者の弁護人と検察側関係者が、法廷外で非公式な情報交換や協力関係を結ぶことは、司法の公正性を著しく害する司法妨行為と見なされる可能性がある。


 ――(西暦2041年改正)


 🥀【夏目リーガル・オフィス - 2042/11/20 22:45:10】


 長い、凍てついた沈黙が、聖とカイトの間に流れる通信回線を支配していた。

 玲奈の記憶ログ――その、あまりにも残酷なラストシーンの残像が、まだ網膜に焼き付いている。

 聖は、彼の言葉を信じたい。信じなければ、この先に道はない。

 しかし、玲奈の魂が遺した最後の光景という、あまりにも生々しい「証拠」が、心の天秤に、重い疑念の分銅を乗せていた。


「…黒瀬君」


 聖は、最後の賭けに出た。

 彼女は、モニターに映るカイトの表情に、全神経を集中させる。魂の音を聴くために。


「もう一度だけ、聞かせて。あなたは、あの時、本当に玲奈の部屋にはいなかったの?」


 その問いは、彼女の視界の黒い糸を、じりじりと焼いた。第一次知覚――『ノイズ』を探る行為。

 だが、カイトの魂は、凪いでいた。


『ああ。僕は、そこにいなかった』


 彼の声、その瞳、そして魂が奏でる音。その全てが、完璧な『協和音コード』を奏でている。

 聖は、戦慄した。

 彼が嘘をついていないのだとすれば、真実は一つしかない。

 誰かが、玲奈の魂そのものに、後から嘘を書き込んだのだ。


 聖は、一度、目を閉じた。

 そして、ゆっくりと開くと、静かに、しかし揺るぎない確信を持って、こう告げた。


「…分かった。あなたを、信じる」


 それは、何の根拠も示さない、あまりにも非論理的な言葉だった。

 カイトは、一瞬だけ、眉をひそめた。

 まるで、理解不能な数式でも見せられたかのように。


「…僕を信じる、か。君のその『非合理な直感』は、時として、AIの確率論よりも正確な答えを導き出すようだ。面白い。実に、興味深い」


 彼は、聖の能力の正体を問いただすことはしなかった。ただ、分析対象として、より一層の興味を深めたようだった。


 二人の間に、奇妙な信頼が生まれた。

 それは、友情ではない。互いの能力を認め合い、共通の敵を打倒するための、法をも逸脱しかねない、冷徹な「契約」だった。


「僕の目的は、僕の論理を汚したこの『偽りの記憶』の作成者を、特定し、排除すること」カイトは言った。「君の目的は、月島アカリの無実を証明すること。目的は違うが、倒すべき敵は、同じだ」


「私たちが持っているのは、迷宮(ラビュリントス)への入り口だけ。出口は見えない」


「ならば、僕の論理が、その迷宮を抜けるための『アリアドネの糸』となる。君は、その糸が示す先に、何が隠されているのかを、その目で確かめろ」


 二人の危険な共犯関係が、静かに始まった。


 🥀【夏目リーガル・オフィス - 2042/11/21 09:00:00】


 翌朝。

 二人は、早速、「偽りの記憶」そのものの解析を開始した。

 それは、法医学者が遺体を解剖するように、冷徹で、緻密な作業だった。


「ここ」


 聖が、記憶ログのある一点を指し示した。

 玲奈が、謎の人物にデータチップを渡す、その瞬間。


「玲奈の感情データが、おかしい。恐怖や絶望といった感情の波形が、この人物が現れた瞬間、一瞬だけ、不自然に途切れている。まるで、映画のフィルムが、そこで一度切断され、別のフィルムを無理やり繋ぎ合わせたみたいに…」


 玲奈の魂の軌跡を、一秒、一瞬たりとも見逃すまいと、食い入るように見つめ続けた、聖自身の鋭い観察眼が見抜いた、決定的な違和感だった。


「そして、上書きされた感情データ。これは、恐怖じゃない。玲奈は、この人物に、信頼と、懇願の眼差しを向けている…。これは、玲奈自身の本当の感情だ」


「…ありえない」


 カイトが、呻くような声を上げた。

 彼は、偽りの記憶データそのものに埋め込まれた、極小のデジタル・ウォーターマーク(電子透かし)を発見していた。

 それは、あまりにも小さく、あまりにも巧妙に隠されていたため、AI『テミス』の一次解析さえもすり抜けていたものだ。

 カイトが、そのウォーターマークを限界まで拡大する。

 そこに現れたのは、あの、玲奈の日記をロックしていた、「蕾と茨の紋章」だった。


「…秋庭」


 聖とカイトの口から、同時に、その名前が漏れる。

 秋庭は、単なる共犯者ではなかった。

 玲奈の日記をロックし、さらに、カイトを犯人に仕立て上げるための偽りの記憶を作成した、最重要容疑者として、再び二人の前に浮かび上がってきたのだ。


 だが、カイトは、冷静に首を横に振った。


「いや、違う。彼の個人データを再解析したが、彼に、これほどの技術はない。ニューラル・パルス・ログへの介入は、神の領域だ。彼は、この紋章を使った、ただの実行犯に過ぎない。彼を操り、この迷宮を設計した、真のミノタウロスが、別にいる」


 カイトは、一つの可能性に行き着き、戦慄していた。この、神の如き記憶改ざんを可能にする存在。それは、もはや人間ではない。

 彼が、忌まわしげに、その名を口にする。


「…学園のAIカウンセラー、『アストライアー』。あいつなら、可能だ」


 聖は、戦慄した。

 偽りの女神がついに迷宮の奥で、その醜悪な素顔を現そうとしていた。

 だが、その神の如き敵と対峙する、その覚悟を決める、その暇さえも彼女には、与えられなかった。

 聖の端末が、激しく震える。

 夏目からの、緊急通信だった。

 その、声は、悲痛に、歪んでいた。


『聖ちゃん…! 今、検察の、人間が…! アカリちゃんを…!』


 聖は、事務所の窓から見た。

 アカリの家の前に、停まる一台の黒い自動運転車。

 そこから、降りてきた、無機質なスーツ姿の男たちに、連れられていくアカリの、あまりにも、小さく、そして、か弱い、後ろ姿を。

 もはや、VR接見も許されない。

 完全に、外界から、物理的に隔離される。

 検察の、特別拘留施設という、本当の情報の「冥府」へ。

 聖は、その場で、膝から崩れ落ちた。

 迷宮の、ミノタウロス。

 その、怪物は、聖がたどり着くのを待ってはくれなかった。

 怪物は、すでに、その最も大切な「生贄」を、そのあぎとの中へと引きずり込んでしまったのだ。


(第2幕 第4章 完)

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