第❶幕 第1章:黒い亀裂と始まりの鐘

🥀【VR統合基本法 第7条(AIによる事実認定)】

 刑事訴追において、AIが複数のデジタル証拠に基づき算出した有罪蓋然性が99.9%を超えた場合、被告人には「高度な嫌疑(strong suspicion)」が成立し、反証責任が転換される。これに対する反証は、同等以上のデータ的根拠をもって行われなければならない。


 ――(西暦2035年制定)


🥀【自宅 - 2042/11/16 07:30:15】

 アラームの電子音で、姫川聖ひめかわ ひじりは浅い眠りから覚醒した。

 昨夜の勝利の代償は、静かに、しかし確実に彼女を蝕んでいた。

 瞬きをするたび、視界の左端に、髪の毛より細い、黒い糸のようなものが一瞬だけ映り込む。

 それは幻覚のようで、すぐに消える。だが、昨日の朝にはなかった、新しい「染み」だった。


 ――世界に、最初の亀裂が入った音を聞いた気がした。


 壁の電子カレンダーに目を向ける。

 普段ならはっきりと見えるデジタル数字が、今日はほんの少しだけ、ピントが甘いように滲んで見える。


『大丈夫? 聖ちゃん。昨日の今日なんだから、学校は休んでも…』


 モニターに映る夏目志穂が、心底心配そうな顔で言う。

 彼女は聖が使う弁護士事務所の所長であり、唯一の協力者であり、そして母親代わりのような存在だった。


「大丈夫です、夏目さん。昨日の案件の上訴じょうそ期限はまだ先ですし。それより…今日は、アカリと約束が」


 聖は、昨夜のメッセージを思い出していた。

『相談があるんだけど――』という、どこか切羽詰まったような文面。

 それが、胸の奥に小さな棘のように引っかかっていた。


🥀【私立エリュシオン・アカデミー 中庭 - 2042/11/16 08:45:02】

「ひーじりっ! おっはよー!」


 背後から抱きつかれ、聖はよろめいた。

 振り返るまでもない。このエナジードリンクを擬人化したような挨拶は、世界で一人しかいない。


「アカリ…重い」


「えへへー、聖の充電完了! さて、今日の聖の"ノイズ"知覚能力の調子はどうかなー? 私の今日のラッキーカラー、当ててみて!」


 親友の月島アカリが、聖の肩に顎を乗せて笑う。


「…赤でしょ。昨日からずっとその話してる」


「ぶっぶー! 正解は情熱のレッドでしたー! さすがひじり!」


 軽口を叩きながらも、アカリは聖の顔色を心配そうに窺う。

 この軽やかさと、深い優しさの同居が、月島アカリという親友だった。


「それで、相談って何?」


 聖が本題を切り出すと、アカリの表情が、先ほどまでの太陽のような笑顔から、一転して真剣なものに変わった。

 彼女は少しだけ辺りを見回し、声を潜める。


「あのね、見つけちゃったんだ。この学園のシステムに、存在しないはずの領域を」


「存在しない領域?」


「うん。管理者権限でもアクセスできない、完全なブラックボックス。あまりに不気味だから、私、こっそり『冥府ハデスエリア』って呼んでるんだ。

 …ねえ、知ってる? ギリシャ神話で、冥府の王ハデスに攫われた女神の名前」


…でしょ。それが、どうかしたの?」


「ううん、何でもない。ただ、そのエリアを見てたら、何となく思い出しちゃって」


 アカリはそう言うと、話を戻した。


「その『ハデス』で、とんでもないデータを見つけたの。うちの学園の生徒だけじゃなくて、色んな企業の個人の生体データとか、取引記録とか…。これ、多分、理事長が裏でやってるヤバいビジネスだよ。データの暗号化の形式とか、タイムスタンプの偽装の手口が、どう見てもアウトなの。これが公になったら…あの人、終わる」


 神宮寺理事長――このVR学園都市の創設者にして、AI裁判システム『テミス』を推進する、時代の寵児。


「危ないよ、アカリ。深入りしないで」


「でも、ひじり。これって、ひじりがずっと戦ってる相手の、一番ヤバい秘密かもしれないんだよ? 私、ひじりの力になりたい」


 その純粋な瞳が、聖の胸を締め付けた。


🥀【VR学級・第3演習室 - 2042/11/16 09:15:33】

 VRゴーグルを装着すると、現実の教室の風景は、未来的なデザインの演習室へと変わる。

 アカリの隣には、神宮寺理事長の娘である玲奈れなが座っていた。

 彼女は、この無機質なVR学級の中で、一人だけ春の陽だまりのような温かいオーラを纏った少女で、その屈託のない笑顔は、誰にでも分け隔てなく向けられた。


「ねえ、これ見て! 父さんがくれた最新のスマート・ディフューザーなの。私のバイタルデータとVR内のログを同期して、集中力やリラックスに最適な香りを自動で調合してくれるんだって。…でも、時々バグるのか、たまにザクロみたいな、ちょっと苦い香りが混じるのよね。私、ちょっとアレルギー持ちだから、変なアロマオイルは使えないんだけど」


 玲奈が、現実の机に置かれたディフューザーを自慢げに見せる。

 その何気ない会話が、後に重要な意味を持つことになるとは、まだ誰も知らなかった。

 その時、教師の説明を遮るように、冷たい声が響いた。


「先生。その解釈は、過去の判例データに基づけば、統計的に9.7%の確率でしか発生しません。感情論による解説は、思考のノイズです」


 クラスの隅で、黒瀬カイトが冷然と言い放った。

 彼は常に学年トップの成績を誇る、データ至上主義の天才。

 カイトは姫川聖を一瞥すると、その視線に一瞬だけ複雑な色を浮かべ、すぐにそれを打ち消すかのように、まるで出来の悪いプログラムを見るかのように、小さく鼻で笑った。


【大講堂『パンテオン』 - 2042/11/16 10:28:40】

 本日の特別講義の講師は、神宮寺理事長その人だった。

 壇上には、彼の隣に娘の玲奈も補佐として立っている。


『――つまり、AIによる統治こそが、人類を最も効率的に幸福へ導く唯一の解なのです』


 神宮寺が、朗々と持論を語る。

 その、瞬間だった。

 壇上の玲奈が、突如、苦しげに喉を押さえた。

 彼女のアバターの輪郭が、激しいノイズを発して揺らぎ始める。


「きゃあああああっ!」


 それは、声にならないデジタルの悲鳴だった。

 玲奈のアバターが、まるで何者かに内側から侵食されるかのように、ピクセルの断片となって崩れていく。

 苦悶の表情のまま、その姿は色とりどりの光のモザイクとなり、最後は――ぷつり、と。

 音もなく、消滅した。

 全校生徒が見ている、その目の前で。

 一瞬の静寂。

 次の瞬間、大講堂はパニックの渦に叩き込まれた。


🥀【システム・アナウンス - 2042/11/16 10:29:12】

 生徒たちの悲鳴を切り裂き、AI『テミス』に連なる学園管理システムの、冷徹な合成音声が講堂全体に響き渡った。


『――緊急事態を検知。対象:神宮寺玲奈のアバターデータに対する、外部からの強制消去プログラムの実行を確認』


『――攻撃経路を逆探知。ログを照合』


『――実行元の端末を特定』


 講堂の巨大モニターに、一つの顔写真が、無慈悲に大写しにされる。

 そこに映し出されていたのは。


『――ソース・アカウントID:《Akari》――月島アカリ。推定有罪蓋然性99.98%。VR統合基本法第7条に基づき、被疑者の身柄を拘束します。対象の、統合IDチップに対し、レベル4の、行動制限プロトコルを、実行』


 聖は、自分の心臓が凍り付くのを感じた。

 隣の席で、親友が絶望に顔を青く染めて、震えている。

 先ほどまでの、エナジードリンクのような笑顔はどこにもない。

 全てが、仕組まれていた。

 これは、ただの事件ではない。

 親友を陥れるために用意された、完璧な処刑台だ。

 始まりの鐘が、今、鳴り響いた。


(第1幕 第1章 完)

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