華炎戦譚 ー呪われた都で異形となりし神々を祓え ー

葵蝋燭

プロローグ章 過去編 「2029年4月13日 逢魔時」

第1話 「あの日までは、ただの春」



 ――2029年、春。

 

 華上かがみの屋敷は、山の麓に佇む静寂の中にあった。

 木々が風に揺れ、春の鳥が鳴く中、使用人達の慌しい呼び声だけが浮いて聞こえる。


雪乃ゆきの様ー! 雪乃様! どこですか!」


 少年―― 亜蓮あれんは、鯉が泳ぐ池のほとりで膝を抱え、それらの声を聞き流すように水面をぼんやりと見つめていた。

 

 気の弱そうな赤い瞳に、少し目にかかる黒い短髪。薄鼠色の着物袴を着て、使い込んだ木刀を胸に抱えている。



華上かがみ 亜蓮あれん 10歳 秘術師の少年】



 桜の花びらが、春風に乗ってふわりと池に舞い落ちた。今日も、使用人と術師達が姉を探して家中を駆け回っている。また、父の大事な錫杖しゃくじょうがないのだろう。


 亜蓮は一つ息をつくと、喧騒を避けてそっと屋敷を離れた。

 

 お気に入りの一本桜の丘に来ると先客がいるのに気づく。やたらと勇ましい声と共に、少女が落ちてくる花びら目掛けて錫杖を突いていた。


「せい! やあ! せやあっ! せやーーっ!!」


 棒術を応用した見事な錫杖捌きに、子供じみた遊びが組み合わさって、あまりに間抜けな光景に言葉を失う。


 少女の動きが止まってようやく、亜蓮は口を開いた。


「……ねえそれ……父さんに怒られるよ」


「――亜蓮」


 錫杖をひと振りし、肩に担ぐ――姉。鋭い風切音と鈴の音を残して振り返ると、少女はにやりと笑った。


「あんたってさぁ……ほんっと気が小さいよね」



華上かがみ 雪乃ゆきの 14歳 秘術師の少女……天才】



 姉――雪乃の言葉に、亜蓮は不機嫌そうに顔を顰めた。



* * *



 ふたりで桜の木の枝に座って、丘の下に広がる屋敷を見下ろす。

 

 雪乃は錫杖を脇に抱えながら、仏壇から掻っ払ってきた饅頭を食っていた。そして、千年以上前から受け継がれてきたと伝え聞く由緒ある錫杖。それが今は、雪乃の練習相手にパクられてきている。


 これが、歴代最強の秘術師と呼ばれる、華上 雪乃・14歳の本性である。

 

 常人離れした身体能力、勘の鋭さ。遊び感覚で秘術も武道も体得するセンス。時代が違えば歴史に名を残すほどの鬼神になったと評価されているが、生まれる時代を間違えればただの奇人だ。


「……姉さんはいつかばちが当たると思う」


「わかってるよー。だから修行頑張ってるんじゃん! ただこういうのも練習になるかなーと思っただけ。あんたこそどうなの? 修行」


 答えられず、亜蓮は黙り込んでしまった。


「……いいよね、姉さんは。才能あって」


「はあーまたそれぇー? まーた師範になんか言われたんでしょ?」


 亜蓮の胸がちくりと痛み、耳元でどさりと地に倒れる音が蘇った。



 *

 


「甘い!! 甘すぎますぞ、亜蓮様!」


 腹の底に響く激昂と共に、亜蓮の鼻先に鋭く木刀が突きつけられる。


 見下ろしてくる老年の師範は、胸元まで玉のような汗をかき、目は青年のようにギラギラと燃えていた。

 

 亜蓮は虎に狩られる寸前の兎のような心象で地面に手をついていた。息は激しい打ち合いで上がっていたが、その目に宿る色は、もう逃げ出したいという己への幻滅だけだ。


「どうしてそういつも肝心なところで気が引くのですか! この老体、手加減は無用と以前にも申し上げましたのに!」


 そうはいっても、と目に涙が滲みそうになるのを亜蓮はこらえる。


 あと少しで競り勝てるという最中、亜蓮の頭に過ぎったのは師範への要らぬ心配だった。もし自分が師範を追い抜いてしまったら、彼の仕事は?ここからいなくなる?もし骨を折ったら?老いた彼の生活は?


 だが、そんな亜蓮の性格もよくわかっている師範は、不出来な孫を見るような優しい目でため息をついた。


「ふぅ……いずれ華上の当主となられる方がそんなことでどうするのですか。少しは秘術師の業というものを自覚くださいませ」


 ――ごう


 聞き慣れない言葉に、亜蓮は首を傾げた。ぱたぱたと袴の砂を叩いて立ち上がり、師範に向き直る。


「……業、って何ですか?」


「む、そうですなぁ。人の行いがもたらす報いや因果を指す言葉ですが……。今ではその者の『生き方』そのものを指す言葉のように思いますな」


「生き方……?」


「まあ、その者が生まれ持った性質さが、とも言えるやもしれませぬな」


 だから自分は、『華上の秘術師としての業』?

 全くピンとこず、亜蓮は師範に尋ねることにした。


「……師範はなんの業なの?」


 すると、師範はやや恥ずかしそうにしながらも、誇らしげに顎を撫でた。


「そうですなぁ。私は差し詰め、『剣士の業』……ですかな! 昔父に無理矢理木刀を握らされたことが事の始まりですが、いやはや、今では刀を通してしか本心で人と交われぬとでも申しますか……!」



 ――という師範の話をすると、雪乃はやや呆れて引き笑った。


「へぇ〜。でもその剣術バカが祟って、奥さんにも娘さんにも愛想つかされちゃったのにね〜」


 師範が剣一筋なせいで、わからずやの頑固親父のクソジジイ、と奥さんと娘さんに逃げられた話は最早ご近所で知らぬ人はいない。今は母娘揃って、遠く南の島でのんびり暮らしているらしい。


「ん〜でもさ〜、師範の言いたいことわかるなぁ〜! こう、あるんだよねぇ……本能が無意識に求めてることっていうかぁ、いつかは果たしたい野望!っていうか〜!」


 わかっているのかいないのか、雪乃は大仰にうんうん頷いている。


「だったら私は『戦う者の業』……っかな〜!? なんかカッコいいし? 誰かとやりあってないと落ち着かないんだよねぇ、血が騒ぐっていうかさー!」


「それなら姉さんは『悪ガキの業』じゃない……?」


「だったらアンタは『弱虫の業』だねぇ〜?」


 本当に意味がわかって言ってんだろうか。脇腹をつつかれ、亜蓮は不貞腐れて目を逸らした。


 でも、例え無茶苦茶なことでも「私はこう」と胸を張って語れる姉が羨ましい。同じ業なら自分らしくいられる分、弱虫より悪ガキの方がずっとマシだと思うから。

 

「――ま、あんたはさ。優しいところがいいところだよ」


 雪乃が笑う。少しだけ大人びたような横顔で。

 その一瞬、姉がどこか遠くの存在のように見えて亜蓮はどきりとした。不安を誤魔化すように思わず身構えて尋ねる。


「……それって気休め?」


「違うよー! 褒めてんのっ!」


 雪乃は高い木の枝の上にいることも忘れるくらいすくっと立つと、ぐーんと伸びをした。その身のこなしと堂々とした様は、不思議と雪乃を内側から輝かせて見せる。


「ま、難しいことはよくわかんないけどさ。この錫杖を継いでも良いって父様に認められるには、私もアンタももっと修行しないとね」


 雪乃は前に突き出した手をぐっと握りしめた。


「ほら、アンタも覚えてるでしょ? 『言い伝えっ』!」


「……いつか、『大きな災い』が起こるっていう?」


「そう。『この錫杖は、いつか起こる厄災の為に受け継がれてきた物である。華上の術師は、きたるその時に備え、この秘術を継ぎ伝えよ』……。――だから私は頑張るよ。もしその時が来たら絶対、私がみんなを守れるようにさ」


 予感のように春風が吹く。舞う桜吹雪の空を背に、雪乃は屈託なく笑った。その眩しい姿を目に映し、亜蓮の胸に途方もなく嫌な予感が湧き上がる。


「姉さ……」


 亜蓮が呼びかけた、その時――。


「亜蓮様! 雪乃様!」


 柔らかな声に気づき見下ろす。桜の木下で、ワイシャツ姿の女性――花緒はなおが軽やかに手を振っているのに気づき、亜蓮の心臓がどきっと跳ねた。



鮎川あゆかわ 花緒はなお 20歳 亜蓮の執事】



 凛とした顔立ちを柔らかく微笑ませ、花緒が桜吹雪の中に立っている。

 

 雪乃へ、そして自分へと向けられる優しい目。その翠色すいいろの瞳と視線が合って、亜蓮は僅かに顔を赤くした。


 

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