姉に夫を寝取られた上に立場を追われた過去視の神子は、創作趣味のある公爵と有閑なる日々を送る

黒本聖南

序章 雪月院公爵夫妻の花見 前

序 桜の木の下には

 雪月院せつげついん公爵夫妻が従者を連れて早朝に向かったのは、家の近所にある広大な自然公園の一角、幾重もの満開の桜が咲き誇る広場であった。


 多くの学生達が卒業を迎えた花見月はなみづきも昨日で終わり、今日からは新年度、卯の花月の始まりだ。

 早朝ではあるものの、花見客の集団はいくらか既におり、腕を奮ったと思しき肴は惜しげもなく敷物の上に広げられ、どこもかしこも飲めや歌えやの大騒ぎ。

 そんな集団は特に目に入れず、咲き誇る桜を横目に見ながら、大きな敷物を両手に抱えて雪月院公爵夫妻の前を歩く従者が口を開いた。


「桜の真下はどこも座られているな」


 従者にしては砕けた物言い。この従者、公爵夫妻よりも年上であり、夫妻の両方から敬語を使わなくて良いと許可を得ているので、普段から気安い態度で二人に接しているのだ。


「桜を眺めながら弁当を食べられるなら、どこだっていいと思いますよ?」


 声にほんのり疲労を滲ませながら、そのように言ったのは夫妻の夫、雪月院公爵。

 髪型はいつも通り、くせっ毛気味の肩までの黒髪を適当に後ろで束ねているが、本日の花見の格好に選んだのは、薄紫色の無地の着物と、深緑色の羽織りに、濃茶のブーツと、それなりにちゃんとしている。

 先日二十歳となり、その肌艶は瑞々しくあるものの、眼鏡では隠しきれない目の下のくまと丸まった背中が、若者特有の快活さを他人に感じさせない。世捨て人のような雰囲気に包まれていた。

 雪月院公爵は誰に対しても敬語を使う。どんな時も、眼鏡の奥にある瞳はいつも眠そうで、いくら注意されてもその猫背は直らない。


「お前達が夫婦になって初めての花見だぞ? せっかくなら一番良い場所で花見をすべきだろうが」

「花見はそうかもしれませんが、どうせ何度も散歩で来ている場所です。そんなに新鮮味もないでしょう」

「ただの散歩と花見じゃ、視線も多少は変わるだろう?」

「それならそれで、良い作品を書けそうですね」

「……あ?」


 柄の悪い低い声を出すと、従者は足を止めて振り返り、雪月院公爵を睨み付ける。他人よりも上背がある従者は、筋肉も程よく付き、鋭い目付きは三白眼。気の弱い者がこのような状況になれば震え上がりそうだが、雪月院公爵に怯えは見られず、奥二重の瞳は相変わらず眠そうだ。


「俺もいるけどさ、せっかく夫婦で花見に来てんだから、こんな時くらい小説のことは考えるなよ」

「逆にお訊ねしたいのですが、僕が何より大切にしている趣味を忘れましたか? その趣味を取り上げられたら、僕はいったい、どうすればいいんですか」

「奥さんとの時間に集中しろよ」


 そんな二人が会話している横で、公爵夫人は静かに控えていた。

 公爵よりも二歳年下の夫人は、艶やかな黒髪をお団子にし、身に纏う紺碧の着物には真っ白な桜の花びらが舞い散る様子が描かれている。空色の足袋に包まれた小さな足は、光沢のある黒い下駄を履いていた。

 夫人は会話に入らずに、あるものを見つめている。

 そこからもう少し歩いた所に、まだ誰も辺りに座っていない桜の木がある。いつ人が来るかも分からないのに、公爵夫人は二人を急かさず、その場所を凝視した。

 やがて、従者の方が夫人の視線に気付く。


「どうかしたのか?」

「……」

「あっ」


 従者が話し掛けた途端に、夫人は無言で走り出した。洋装ではなく和装、その上、下駄を履いているというのに、夫人の脚はそれなりの速度が出ていた。

 おい、と従者が言ったときには、公爵も走り出す。夫人と同じく和装、そして多少は走りやすいブーツだが、彼女とは違いあまり速度が出ていなかった。

 後から追いかけてきたはずの、両手に敷物を抱えている上に、弁当箱を風呂敷に包んで肩に背負っている、燃えるような赤色の短髪と鮮やかな緑色の作務衣が特徴の従者に、公爵はあっさりと抜かされていた。

 やがて夫人は空いている桜の木の下に立ち止まり、すぐに従者と、遅れて公爵が追い付く。


「あっ……空いている所があって……良かった、ですね……」


 息を乱しながら公爵が話し掛けているというのに、夫人は返事もせずに桜の根本にしゃがみこみ、徐に土に触れ出す。特に気にした様子もなく、公爵は夫人の隣に行き、着物が汚れるのも構わずに、同じようにしゃがみこんだ。

 夫人も公爵も口を開かず、従者は黙々と敷物を広げ、弁当を広げていき、それらが済めば敷物の上に胡座を掻いて、二人の様子を見守る。

 温もりを帯びた風が吹き、夫妻の鼻には華やかなにおいが届いた。舞い散る花びらは、祝福のように夫妻の頭上へ降り注がれる。

 ふいに、夫人は土から手を離し、隣にいる公爵へと視線を向けた。


「──花霞はながすみ様」

「何でしょう、春露はるつゆ様」


 あまり笑みを浮かべぬ妻・雪月院春露。

 いつも眠たそうな顔の夫・雪月院花霞。

 昨年の、初夏を迎える頃に夫妻となった若人二人。互いにそれぞれ似た所があるせいか、大きな喧嘩をしたことはまだない。


「ここ、死体が埋まってる」

「……そうですか」

「──いや! 死体って!」


 事件だろうが! と騒ぐのは従者だけである。

 のんびりと、のんびりと、雪月院公爵夫妻は有閑なる日々を共に過ごしていく。


 これまでも、これからも。

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