第4章 月下に咲く牙
ルーマニアの深山――
地元の者たちが「夜は決して近づくな」と言う森がある。
それは単なる迷信ではなかった。
この地では、数世代にわたって“月の夜に消える者”の話が囁かれていた。
誰も見ていない。証拠もない。ただ、夜に森へ踏み入れた者が、二度と戻ってこない。
祖父のノートには、簡単な地図とともに名前があった。
「リア。かつては薬師だった女。月の呪いに抗いながら、なおも人を喰わぬために森へと消えた」
私はその森へと足を踏み入れた。
アダムは峠で待機すると言った。
「気配を抑えられぬ。我が踏み込めば、敵と見なされるだろう」と。
⸻
森は、想像よりも静かで、そして息を呑むほどに美しかった。
湿った苔と薄霧に包まれ、月明かりは木々の隙間から柔らかく降り注いでいた。
遠くでふくろうの声がひとつ鳴き、すぐに沈黙する。
まるで、森全体が“何か”の訪れを予感して、息を殺しているようだった。
私は、祖父が記した目印をひとつずつたどって進んだ。
白いリボンが巻かれた古木。欠けた石像。風に鳴る鐘のない祠。
どれも、彼女――リアが“自分を封じるため”に置いた境界線。
そのときだった。風が止まり、空気が凍った。
直後、空気が裂ける音がした。
影のように飛びかかってきたのは、銀灰色の毛並みを持つ“獣”だった。
人のような四肢。狼のような顔。月光を受けて赤く光る双眸。
それはただの獣ではなかった。意志があった。
理性と狂気がせめぎあう、苦しみに満ちた目。
――リアだ。
彼女は私を一瞥し、牙を剥いた。
「下がって」
私はとっさに銀の短剣を構えた。だが、戦うつもりはなかった。
叫ぶように、訴えた。
「あなたを殺しに来たんじゃない。救いに来たの」
その言葉に、一瞬だけ動きが止まった。
その隙に、私は祖父のノートから一枚の紙を引き抜いて見せた。
「リアへ。月の毒を少しでも抑える調合を記しておく。
君がまだ、己を保っているなら……再び人の心を信じてほしい」
獣の耳がわずかに揺れた。
次の瞬間、彼女は喉を鳴らし、低く唸りながら踵を返し、森の奥へと姿を消した。
私はすぐに追った。
⸻
たどり着いたのは、廃礼拝堂のような石造りの小屋。
屋根の一部が崩れ、柱には爪の痕が無数に残されていた。
中には、意外なほど整った寝床と、薪の残る炉、干した薬草の束があった。
その奥、冷たい泉の前で、彼女は人の姿に戻っていた。
背中には無数の爪痕。呼吸は浅く、全身が震えていた。
私は声をかけることができなかった。何かを壊してしまいそうで。
「……見せたくなかったな。こんな姿を……」
リアの声はかすれていた。
「薬師だった頃、人を癒していた。今はその同じ手で、人の首をへし折ってる」
「でも、あなたは自分を閉じ込めてる。誰も傷つけないように」
私はゆっくりと薬草袋を取り出した。
祖父の調合メモに基づいて、彼女の症状に効く薬を選び、手際よく煎じる。
「祖父が書き残した処方。即効性はない。でも、痛みは和らぐ……それだけでも、飲んで」
リアはしばらく私を見つめていたが、やがてゆっくりと湯を受け取った。
薬の苦みを感じながら、眉をしかめる。
「……あんた、馬鹿だな。こんな場所で、化け物相手に。喰われても文句言えないよ?」
「私は狩人だから。“喰われること”にも、少しは慣れてる」
思わず自嘲気味に笑った私に、リアも肩を揺らして笑った。
「……ふん。悪くない」
月は夜空の頂で止まっていた。
リアは立ち上がり、外に出て、ひとつ深呼吸をした。
月明かりの下、彼女の銀髪が風に舞った瞬間、その姿は再び狼へと変じた。
その背中に、かつての祖父が言った言葉を思い出した。
「リアは決して人を喰わない 喰いたくないと思える心が、彼女を“人間”にしている」
私はそれを信じた。
だから、背を追わず、静かに見送った。
⸻
その翌朝、峠に戻ると、アダムの隣にリアがいた。
「……ついて来てやるよ。あんたが“怪物の味方”をやるってなら、そいつが嘘じゃないって証明してみな」
彼女の声は、昨夜よりずっと澄んでいた。
こうして、三人目の“怪物”が、私の仲間となった。
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