第15話 傘の下の温度

雨の音が、窓ガラスに小さく響いていた。

教室はどこか湿り気を帯びた静けさに包まれていたが、それとは裏腹に、美月の胸はざわついていた。


隣の席の沙耶が、朝からずっと顔色が悪い。

目の下には薄くクマができ、いつもの明るさが影を潜めていた。


「……沙耶、大丈夫?」


声をかけると、沙耶は無理に笑顔を作った。


「うん……ちょっと、寝不足でさ。昨日、あんまり寝られなくて」


「無理しないで。保健室、行ってもいいんだよ」


「ううん……大丈夫。授業、出たいから」


そう言ったものの、沙耶は一時間目の途中で何度も咳をして、ノートにペンを走らせる手も震えていた。

周囲のクラスメイトたちは、彼女の異変に気づいても知らんふりをするか、遠巻きに見るだけだった。


美月は何度も、先生に伝えようか迷った。

でも、沙耶の“強がり”を知っているからこそ、簡単にその選択ができなかった。


 


昼休み。

沙耶は、ほとんどお弁当に手をつけられずにいた。


「……やっぱり、保健室行こう?」


「……ごめん、美月。もう……少し、休ませてもらう」


その時には、沙耶の顔色はさらに青ざめていた。

保健室に付き添おうとした美月に、沙耶は弱々しく首を振った。


「一人で大丈夫。……これ以上、目立ちたくないの」


その言葉が胸に刺さる。


(……そうだよね。今、私と一緒にいるだけで、沙耶は余計に見られてる)


わかっている。

でも、だからといって――見送るのは苦しかった。


沙耶がふらつきながらも、一人で廊下に出ていく。

その背中を、美月は黙って見送った。


 


午後の授業が終わる頃には、空はすっかり夕方の色に染まっていた。

雨脚はさらに強まり、傘のない生徒たちが昇降口で立ち止まっていた。


美月もその中の一人だった。

沙耶からの連絡はまだ来ない。


(……無事、帰れたかな)


そんなことを考えていたとき、不意に背後から声がかかった。


「……ひとりでいるんだ。いつも一緒の子は?」


顔を向けると、そこには沖田蓮が立っていた。

その目は、少しだけ哀しげだった。


「今日は、体調崩して早退したの。……なんで?」


「……いや。ちょっと、気になっただけ」


沖田は言葉を濁した。

まるで何かを飲み込むように、視線を斜めにそらす。


「彼女さ。君と一緒にいることで、無理してない?」


「……どういう意味?」


「自分じゃない誰かを守ろうとすると、気づかないうちに、壊れそうになることってあるから」


その言葉は、美月の心にゆっくりと落ちていった。


「でも、それでも一緒にいたいって言ってくれたの。……だから、私ができることは、信じてそばにいることだけ」


沖田は少し驚いたような顔で美月を見た。

そして、すぐにいつもの微笑みに戻った。


「そっか。……じゃあ、君も無理するなよ」


そう言って、沖田は自分の傘を軽く持ち上げ、美月に背を向けて歩き出した。


(……沙耶、ちゃんと休めてるかな)


胸の奥に残った不安を抱えたまま、美月は自分の傘をさして、雨の中へと歩き出した。


 


その夜、スマホに短いメッセージが届いた。


──「今日はごめんね。また明日、話そ」──


それだけで、美月の胸にほんの少し温かい灯が灯った。


たとえ誰かが離れていっても、信じ合える人がいる。

そのひとつひとつの繋がりが、今の彼女の支えだった。

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