第4話 [心の距離と波打ち際]

夜が明けても、わたしはまだ水面近くにいた。 月の光が去ったあと、代わりに朝の靄が世界を包み込む。 青くにごった空は、昨日とはまるで別物のように静かだった。


海と空の境目が曖昧になっていく。まるで、 心の境界線も少しずつ溶けていくみたいに。


わたしは、彼の声を思い出していた。 言葉にはならなかった旋律。 それなのに、あれほどまでに心に届いたのは、 わたしがどこかで「聞いてほしい」と願っていたからなのかもしれない。


沈んでいた感情が、浮かび上がっていく。 それは痛みでも、希望でもなく——ただ、確かに「温度」のあるものだった。



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海の底では、誰かと心を通わせるなんて、もう起こらないと思っていた。 孤独であることに慣れすぎて、むしろそれが「自分らしさ」だと思い込んでいた。


でも違った。 昨日のあの夜、 彼の声に触れたとき、 わたしの心は間違いなく動いた。


誰かの存在が、 自分の“意味”を変えることがあるなんて——。



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ふと、岸辺の方から音がした。 誰かが歩く足音。 そして、ポツリと落ちる言葉。


「……昨日の場所、ここで合ってるかな」


その声に、心臓が跳ねた。 わたしは思わず水面に顔を出しそうになるのを、 ぎりぎりのところで踏みとどまった。


彼だった。 昨日と同じ、でも少しだけ違う表情をしている。 不安と、決意と、それから——わずかな期待。


彼の手には、小さな紙袋。 風に飛ばされそうになりながらも、 慎重に、それを波打ち際にそっと置いた。


「……食べるかわかんないけど、 甘いやつ、いろいろ入れてみたから」


袋の中には、チョコレートやクッキー、 カラフルな飴が、いくつか揺れている。


わたしは戸惑っていた。 まさか、再び会いに来てくれるとは思っていなかったから。


彼は少しだけ波打ち際から離れて、 岩場に腰かけ、空を見上げた。


「……昨日の声、ほんとに、誰だったんだろうな」


その目はまだ迷っていたけど、 どこかで「信じたい」と思っているように見えた。


わたしは、ゆっくりと水面に近づいた。 波がさらりと袋を濡らす。


彼が振り返った。 わたしの姿は見えていない。

けれど、彼の目はまっすぐ、海を見ていた。


そして小さく、笑った。


「……また、会えるといいな」


そう言って、彼は立ち上がり、 その場に、

手紙のようなものをそっと置いていった。


やがて彼の背中が遠ざかっていく。

わたしは静かに波間から顔を出し、

残された袋と紙切れを見つめた。


紙には、走り書きの文字。


《ありがとう。  あなたが誰かは分からないけど、  あの夜、救われたのは、僕のほうでした》


わたしの胸の奥に、また波が立った。


誰かの言葉が、こんなにも温かいなんて。


わたしは袋の中から飴をひとつ取り出し、

口に入れた。


甘い。


その味は、今までに知らなかった種類の

ぬくもりだった。


そしてわたしは思った。


「……また、会いたいな」


海は、静かにその言葉を飲み込んで、

新しい朝へと、わたしを連れていった。



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