第8話:優しい戸惑いと微かな疑問符

完璧な幸福の中で、彼女は暮らしていた。

朝は、決まって鳥のさえずりで目覚める。

窓から差し込む、柔らかな朝の光。

ひのきの香りが、小屋を満たしている。

土の匂い、焼き立てパンの香り。


全てが、満ち足りた日常だった。

畑へ向かう。

土は、いつも適度な湿り気。

作物は、常に均一な成長を見せる。

虫食い一つない、完璧な葉。


病気にかかることも、一切ない。

収穫の喜びは、毎日変わらない。

ずっしりとした野菜の重み。

泥の匂い。

口にした時の、確かな甘みと瑞々しさ。


それは、彼女の心を深く満たした。

しかし、微かな違和感が、心をよぎる。

村のパン屋。

いつ行っても、誰もいない。

棚には、同じ種類のパンが並ぶ。


どれも、完璧すぎる均一性。

まるで、複製されたかのように。

「……毎日、誰が焼いているのかしら?」

彼女は、首を傾げた。

その問いかけに、答えはない。


村人たちの表情は、常に穏やかだ。

笑顔は、いつも同じ。

まるで、貼り付けられたかのように。

そこに、感情の機微は感じられない。

特定の時間に、特定の場所で。


いつも同じ行動をしている村人たち。

「朝の泉には、必ず水汲みの人がいるわね」

彼女は、そんなことに気づいた。

彼らの動きは、どこか機械的だ。

天候は、常に穏やか。


嵐も、干ばつも、一度もない。

病気の人も、一人もいない。

季節の変化も、不自然なほど規則的。

夏は完璧に暑く、冬は完璧に寒い。

秋には豊かに実り、春には一斉に芽吹く。


自然の摂理を超えた、完璧さ。

「この世界は、あまりにも出来すぎている」

彼女は、空を見上げながら呟いた。

その視線は、遠く、青い空の彼方へ。

「まるで、誰かの手で完璧に調整された。


精巧な箱庭みたいだわ」

その言葉は、口から滑り落ちた。

まるで、誰かに聞かせるように。

都会での過去の記憶が、突然、頭に浮かんだ。

それは、断片的ながら、鮮明だった。


オフィスビルの、冷たい空気。

キーボードを叩く、無機質な音。

上司の、厳しい声が、耳元で響く。

胃の痛み。眠れない夜。

天井の模様を、数え続けた日々。


常に感じていた、閉塞感と息苦しさ。

満員電車の騒音。

人々の、無関心な視線。

スマートフォンの、まぶしい画面。

それらが、鮮明な映像となって。


彼女の脳裏に、フラッシュバックする。

彼女は、突然息を呑んだ。

顔をしかめ、頭を抱える。

全身に、冷たい汗が滲む。

「……っ!」


うめき声が、喉から漏れた。

その様子に、リースが気づいた。

彼は、黙って彼女に近づく。

そして、彼女の手を取った。

彼の温かい手のひらが、彼女の指を包む。


その温もりが、彼女の身体を緩ませる。

強張っていた心が、ゆっくりと解けていく。

彼女は、安堵の息を漏らした。

「リースさん……」

彼を見上げると、彼は何も言わずに。


ただ、静かに彼女を見つめ返していた。

しかし、疑問は完全に消えていない。

リースの手の温もりを感じながらも。

彼女は、ふと遠い目をしたり。

不安げに周囲を見回したりした。


彼女は、リースとの会話の中で。

さりげなく、この世界の「不思議な点」について。

問いかける場面を設けた。

「ねぇ、リースさん。この村って、いつも同じなの?」

彼女が尋ねると、リースは少し考えるように。


「……ああ」

短く、そう答えた。

「いつも、穏やかで平和だ」

彼の言葉に、彼女は少しだけ安心する。

しかし、その安心は、一時的なものだった。


完璧すぎる平和。

それが、彼女の心に微かな波紋を広げる。

ある日、彼女は村の子供たちと遊んでいた。

彼らは、いつも同じ歌を歌い。

いつも同じ遊びを繰り返す。


その動きは、完璧にシンクロしている。

まるで、誰かに教え込まれたかのように。

「ねぇ、他の歌は歌わないの?」

彼女が尋ねると、子供たちは首を傾げた。

「これしか知らないよ?」


無邪気な笑顔で、そう答える。

その言葉に、彼女は背筋が凍るような感覚を覚えた。

「そう……なの」

彼女は、無理に笑顔を作った。

子供たちの瞳は、やはり澄み切っている。


しかし、そこに、彼女が求める「輝き」はない。

彼らは、まるで、感情の「型」にはめられたよう。

そんな印象を、彼女は受けた。

畑仕事をしている時も。

彼女は、土を耕す手を止める。


そして、空を見上げた。

雲一つない、完璧な青空。

太陽の光は、いつも均一に降り注ぐ。

雨は、作物が必要な時に、適度に降る。

自然現象でさえ、コントロールされているかのよう。


彼女は、もう一度、深く息を吸い込んだ。

土の匂いは、豊かで温かい。

しかし、その完璧さが、逆に。

彼女の心に、違和感を植え付ける。

「あまりにも、できすぎてる……」


そんな言葉が、喉元まで出かかった。

彼女は、リースにこの疑問を打ち明けようとした。

しかし、彼の穏やかな表情を見ると。

言葉が出なくなる。

この平和を、壊したくない。


そんな気持ちが、彼女を躊躇させた。

リースの存在は、彼女の心の支えだ。

彼がいてくれるから、この完璧すぎる世界でも。

彼女は、穏やかに過ごすことができている。

だからこそ、真実を知ることが、怖かった。


不安の種は、まだ小さかった。

しかし、それは確実に、彼女の心の中で育っていた。

この「箱庭」の真実へと続く、微かな道標。

彼女は、それを無意識のうちに辿り始めていた。

夕焼けが、村を茜色に染める。


美しい光景だ。

しかし、その美しさの裏に。

微かな影が、潜んでいることを。

彼女は、感じ始めていた。

完璧な日常に、浮かび上がる疑問符。


それは、彼女の心を静かに揺さぶる。

夜、小屋で、彼女は独り。

暖炉の火が、パチパチと音を立てる。

その音だけが、静寂を破る。

彼女は、遠くの森をじっと見つめた。


木々のシルエットが、闇に溶け込んでいる。

この森の奥には、何があるのだろう。

村の広場の外には、何が広がっているのだろう。

彼女の知らない、この世界の「外側」。

そんな漠然とした好奇心と、不安。


それらが、彼女の心を占め始めた。

暖炉の火の揺らめきが、壁に影を落とす。

その影が、まるで何かの形に見える。

彼女は、思わず目を細めた。

この穏やかな日々が、いつか終わる。


そんな予感が、胸の奥で、微かに響く。

それは、まるで遠い雷鳴のようだった。

彼女は、そっと窓に近づいた。

夜空には、満月が輝いている。

その光は、どこか冷たく、そして神秘的だ。


月を見上げながら、彼女は願った。

この幸せが、どうか壊れませんように。

しかし、その願いは、心の奥底で。

既に答えを知っているかのようだった。

完璧な幸福の裏に隠された真実。


彼女は、ゆっくりと、しかし確実に。

その真実へと近づいていた。

そして、それは、彼女の想像を。

遥かに超えるものになるだろう。

彼女の物語は、転換期を迎えていた。

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