後部座席の輪郭
スマホの画面を伏せて、俺は息を吐いた。
さっきの写真。
消したはずの一枚は、削除フォルダにすらなかった。
その代わりに、ライブラリのいちばん上に、新しい写真が保存されていた。
シャッター音は鳴っていない。アプリも起動していない。
なのに、そこには確かに、いま現在の車内が写っていた。
ルームミラー越しの視点。
撮った覚えなど、ない。
そして――
後部座席に座る女の隣に、もう一人の女が写っていた。
濡れた長髪。顔が半分隠れている。
その目が、写真の中で、まっすぐ俺を見ていた。
慌ててスマホを伏せる。
ミラーはすでに倒してある。だが、気配は消えない。
俺は意識的に呼吸を整え、ハンドルを握り直した。
ナビはまだ進路を示し続けている。
目的地まで、あと800メートル。
だが、そこへ近づくにつれて、景色が妙になっていった。
どの建物にも灯りがついていない。人影もない。
まるで町全体が、死んだ魚のように、無音のまま濡れていた。
このあたりは本来、寺が密集している区域だ。
夕方までは参拝者の姿もある。
だが深夜でも、ここまで“人の気配”がないのは異常だった。
そして俺は――気づいてしまった。
後部座席の空間が、少しだけ広がっている。
たとえば、視界の端に映る天井の角度。
サイドミラーに映る後席の窓の大きさ。
走行時に聞こえる、内装の軋む音の低さ。
ほんのわずかに、だが確実に、車の構造が“変わっている”。
まるで、あの女をもうひとり乗せるために――
タクシーの内部だけが、少しずつ広がっているようだった。
「写真、消しても意味ないよ」
声が、した。
振り向かない。反応もしない。
でもわかる。
それは、最初に乗ってきた“あの女”の声ではなかった。
もう一人。
いま、座っている“誰か”の声だ。
「写される前から、わたしは、いたんだから」
声に感情はなかった。
それは言葉ではなく、“写真の中の存在”が直接脳に語りかけてきているような響きだった。
俺はナビに視線を移した。
残り600メートル。
行き先の表示が、いつの間にか変わっている。
目的地の経度・緯度表示が消え、ただ一言だけが浮かんでいた。
「火の見櫓」
GPS上にその名の表示は存在しない。
だが画面には、まるでその場所が元から登録されていたかのように、ピンが立っている。
次の角を左折する。
前方に、例の火の見櫓が見えてきた。
朽ちた木組みが、夜空に刺さるように黒くそびえる。
その下に――女が、もう一人、立っていた。
車内の誰とも違う、しかし、どこか“似ている”。
そしてその女が、俺に向かって微笑んだ。
その顔は、かつて写真に写っていた“あの女”と、まったく同じだった。
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