あれは丁度台湾の北埔ほくふで事件があった頃だから、明治四十年の十一月半ばだったと思う。大学に行って、次の日の授業に必要な本を急いで漁っていたら、いつの間にか表は随分と暗くなっていた。目当ての本も見つかったし、さすがに冷えてもきたので、僕は帰ることにした。

 京都の冬は厳しいし、僕の大学がある辺りも、もちろん例外ではない。くしゃみ一つ足早に行くところ、橋の隅で女が一人しゃがんで難渋しているのを見かけた。庇髪の黒髪艶やかに、紺の吾妻コートを纏って、うなじに小袖の灰色が覗いた。僕は普段女人に気軽に声を掛けるようなたちではないが、さすがにもう暗く夜になろうとしていたし、寒くもあったから、見過ごすわけにはいかなかった。

「もし、そこのお方」

 女はふいと、頭を上げると、肩越しに顔を僕に向けた。僕は思わず息を呑んだ。「美貌」とはこのことを言うのだろう。女の目鼻立ちはあまりにも整って、まだあどけなさを残しながら、大人の怜悧を漂わせた。瞳はこの暗がりでも分かる紫紺を帯びて、僕はその顔立ちで女が異人であることを知った。思いがけずどぎまぎしてしまう。しかし、もう声は掛けてしまっているのだ。

「あ、失礼。足でも挫かれたのかと思いました」

「いえ、特には」

 僕の言葉が伝わるだろうか、と思ったが、帰って来た言葉は発音に何の違和感も持たせなかった。意思疎通に問題は無いらしい。

「では、こんなところで何をなさっていたので?」

「……少し疲れたので、一休みしていましたの」

 はて、そんな風には見えなかったが、と思いながら「不用心ですよ、もう暗くなるのに」と口走って、どうも自分の様子がおかしいことに気付いた。僕は見ず知らずの女人に普段こんな口はきかない。

「ええ、そうですね」と言って女は立ち上がった。僕の上背があるのもあるが、意外と小さな女だと思った。何故だか胸が締め付けられた。その胸の締め付けに、次の言葉は自然とまろび出た。

「どこまで行かれるのです。せめて明るいところまでは送って行きましょう」

「いえ、結構ですよ」

「しかし……」

 大学の近くは田舎であるから、そうおかしな人間もいないであろうが、心配だった。しばらく見つめ合って、紫紺の瞳に魂を抜かれそうになって、そうするうち、女がク、と口の片端を上げた。思えば、ここからもうおかしかったのだ。

「――では、送ってくださいます?」

 女の家は出町柳でまちやなぎの方らしかった。大学からは川を挟んで西に行ったところにある。川のせせらぎを聞きながら、橋を渡った。中空に雲に紛れながら月がかかっていた。

「お生まれはどちらで」

 詮索しようとしたのではない。歩いている間、話の種らしきものが欲しかったのだ。

「生まれはペルシアの方ですよ」

「ほう、それは珍しい」

 あまりそちらから日本に来るというのは聞いたことがなかった。

「どうしてこちらに」

「先の戦捷でどんな国か気になりましたの」

 先の戦捷とは、ロシアとの戦いで勝ったことに違いなかった。小国日本がロシアに勝ったという話は海の外でも随分な話題だったという。しかし、それで日本に来るというのも随分と身軽な話ではあると思う。この先を聞こうか、さすがに不躾かと迷っていたところで、女の方から聞いてきた。

「ところでまだ名前を伺っていませんでした」

「あ、失礼。林堂修一と言います」

 そこで何故か物凄い寒気がした。外気の冷たさとは関係が無い震えが足元から上がって来た。何か取り返しのつかないことをしてしまった気がする。女は微笑んだ。

「これで入れますね」

「え?」

 既に僕たちは出町柳の小道にいた。入るとは? と疑問に思ったところで、強い陽の光が眼を刺した。

 あたりの景色はがらりと変わって、どう見ても昼間で、いや、それよりも広がる景色の異様なこと。日本らしからぬ、というよりも、明らかに日本ではない、乾いた岩山に張り付くように石造りの家々と坂道が伸びている。僕はほとんど腰が抜けそうになった。女は僕に振り向いて、また口の片端を上げた。

「さて、明るい所まで出ましたが、ここからどうなさいます?」

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