第43話 ヴァルトに息づくもの
婚儀を終えてから、季節が幾度も巡った。
騎士ファーレン=グライスは、ヴァルトの地に腰を据え、領主としての務めを粛々と果たしつつあった。
領内は、かつての辺境の趣を少しずつ変えつつある。かつては道もろくに整備されず、雨が降ればぬかるみに馬脚を取られていた街道も、今では砕石が敷かれ、粗末ながらも木柵と見張り所が点在するようになった。
村と村とをつなぐ細道にさえ、見回りの兵が交代で歩哨に立つ。
この数年、戦の喧騒は遠くにあった。けれども、穏やかさは油断を許さぬ緊張の中にあった。
中央では次の遠征の噂が絶えず、北辺の領地では盗賊の活動が活発化しているとも聞く。
オズベル=ハスタは、領主ファーレンの従士として、この地に根を下ろしていた。
日々の任務は多岐にわたり、領兵の訓練を監督し、物資の分配を記録に目を通して確認し、時に役所の帳場に顔を出して、納税や年貢に関する問い合わせの調整までも引き受ける。
「おまえさん、領主様の右腕どころか、もう半身だな」
領兵たちは冗談めかしてそう言うが、オズベルにとってそれは冗談に聞こえなかった。
戦場に立つ機会こそ減ったが、槍はなお倉の中にあり、定期的に手入れされていた。
鍛錬も欠かさぬ。
手足に纏う筋肉は、戦場にいた頃より幾分か厚くなり、眼差しには日々を睨む者の静かさが宿っていた。
今日もまた、領主の屋敷からの呼び出しがある。
砦の一角を改装した政務棟。その一室で、ファーレンが兵の編成に関する話を進めていると聞かされていた。
「オズベル様、お通しします」
従僕が扉を押し開ける。
部屋の中では、ファーレンが机上の地図に目を落とし、数名の文官と話を交わしていた。
彼の背には、グライス家の紋を染め抜いた紺のマント。かつて従騎士だった頃とは異なり、今の彼は誰の目にも“領主”だった。
「来たか、オズベル」
声色は変わらぬが、そこに宿る責務の重さだけが、確かに変わっていた。
「――で、下流の堰だが。春先の雪融け水が一気に流れ込むようでは、また村が浸かる」
机の上に置かれた粗削りな地図を指しながら、ファーレンが眉を寄せる。
「堤を組み直すか、もしくは新たに分水路を設けるべきでしょう」
応じたのは、年嵩の文官だ。街道整備や年貢の割り振りで助言を重ねてきた、古参の者である。
「水の勢いが分かれるように仕向ければ、田畑への被害も減ります。ただ、今の人手では掘削だけで三月はかかりますな」
ファーレンは顎に手を当てたまま、沈思するように地図を眺めた。
「オズベル、おまえの目から見てどうだ?」
「分水の案は理に適っています。ただ、村々から労役を募るとなると、田植えの時期と重なってしまいます。時期をずらして、まず川筋を測り直すのが先かと」
「ふむ……確かに、その通りだ」
ファーレンは軽く頷くと、机の縁に指を添えたまま、立ち上がった。
「我々が兵だけで成り立っていると思われるのは、領主として恥だ。治めるからには、暮らしを支えねばな」
その声に、文官たちも深く頷いた。
オズベルは、ふと外を見やった。
砦の外れに広がる細流は、光を反射してきらめいている。そこに、村の子どもたちが網を投げ、遊んでいた。
(あの流れが氾濫すれば、真っ先に浸かるのはあの村だ。ならば、俺たちのすべきことは――)
己に言い聞かせるように、ひとつだけうなずいた。
「では、工事の段取りはこちらでまとめておきます。調査には兵も数名、付けましょう」
「任せた。おまえの見立てに、俺はよく助けられている」
ファーレンの言葉は重くもあり、どこか信頼の色を含んでいた。
文官たちが辞していくなか、オズベルはその場に残り、調査に向けての人員選定と手順の見直しに着手した。
槍を手にするだけが従士の役目ではない。戦が遠のくならば、次に守るべきは民であり、土地である。
そう思えるようになったのは、いつからだったか。
振り返っても分からぬが、今ではそれが、当たり前のように胸にあった。
槍の音が、乾いた空気を震わせていた。
砦の一角にある訓練場。朝の霞が薄れぬうちから、十数名の若い兵が汗を飛ばしながら稽古に打ち込んでいた。槍を握る手には粗布を巻き、木製の胸当てには泥と汗が染みついている。
「止めっ!」
オズベルの声が飛ぶと、動きが一斉に止まった。
兵たちの視線が、一様にこちらを向く。
「突くのが遅れている。前の相手の体勢が崩れたときに、一歩詰めて仕留められないと意味がない」
声に咎める色はなかったが、内容は厳しい。
若い兵士たちは息を整えながら、それぞれの姿勢を正した。
「隊列を保って動くとき、身体の軸が甘い者が多い。少し下がれ、隊の並びを見てみろ」
オズベルは槍を地面に突き立て、自らの影が伸びる先を示した。
「この地に集まった兵のほとんどが、ここ一年で徴募された者たちだった。村人、狩人、元は兵でも何でもない者ばかりだ」
「だが、今ここにいる以上――戦の場では、誰の盾にもなる。誰の命も背負うことになる」
その言葉に、若い兵たちはやや緊張した面持ちで頷いた。
誰も口を挟まぬのを確認し、オズベルは一歩、前へ出た。
「……槍を、もう一度構えろ。最前列は足を開きすぎるな。中央に重心を置け。構えの高さ、意識しろ」
声が飛ぶたびに、兵たちの姿勢が揃っていく。
ラルスが見回りから戻ってくると、訓練の様子をしばし遠巻きに眺めていた。
「……ようやっと、みれるようになってきたな」
ぽつりと洩らした声に、オズベルは槍を肩にかけて振り向いた。
「まだまだです。戦の土煙のなかじゃ、綺麗に構えたって崩れます」
「まあ、最初っから化け物みたいに動けるやつのほうが怖いけどな。お前はその点、順当に鍛えてるわ」
ラルスの口元が緩む。
先に従士となった男は、今では砦の兵の編成や調練の補佐を任されることも増えていた。
「あの頃のお前が、今こうやって人の槍を見てるってのは、悪くない話だと思うぜ」
日差しが、ふたりの立つ訓練場を明るく照らしていた。
汗のにおい、土の感触、若い兵たちの気迫。
そこには、静かだが確かな「鍛錬の熱」があった。
「……昼には止めさせますよ。午後は分水調査の段取りがあるもので」
オズベルがぼそりと呟くと、ラルスは肩をすくめた。
「お前も忙しい身分になったもんだな、オズベル=ハスタ殿」
からかうような声色に、オズベルは返さなかった。
ただ、槍の石突きを地面に打ちつけるようにして、もう一度声を上げた。
「前列、構えなおせ――!」
午後、陽が傾きはじめるころ。
オズベルは数名の従士と共に、ヴァルトの南方へ馬を進めていた。
行く先は、領内を流れる小川の下流域。
春先の雪解けで増水するこの辺りは、たびたび畑を浸し、村落の端を脅かすことがあった。近頃、民の間で「また崩れそうな堤がある」との声が上がったため、調査のために出向くこととなったのだ。
「……見えてきました。あの柳の奥です」
随行していた若い従士が指さす。
その先には、土を盛っただけの粗末な堤防と、わずかに蛇行した流れが広がっていた。
馬を降りたオズベルは、草むらを踏み分けて堤の縁まで歩く。
足元はまだじっとりと湿っていた。
下流側の土が、あからさまに抉られている。
「……雨が続けば、すぐに抜けるな。用水の扱いも雑だ」
ラルスが背後で息を吐いた。
「やっぱり手を入れとくべきか。崩れてから直すほうが、手間も人手も倍はかかる」
「すぐに工を起こせるよう、測量だけは済ませておきます」
オズベルは懐から巻紙を取り出すと、膝をついて地形を記しはじめた。
ラルスが手を貸し、目測で流れの幅や土の状態を確認していく。
二人のやり取りは最小限だった。
だが、互いの動きは無駄がなく、測量道具を交わす手つきひとつにも、数年の従軍の中で培った信頼がにじむ。
ふと、土手の上に立っていた若い従士のひとりが、空を見上げて言った。
「……鷹ですね。西の森から来たのか」
見上げれば、薄雲を切り裂くようにして、一羽の鷹が旋回していた。
「この地も、だいぶ生き物が戻ってきた。前は、何もなかったもんな」
ラルスが呟く。
「人が住み、土を耕せば、地も呼応する。少しずつ」
オズベルの声は低かったが、確かな響きを持っていた。
視線の先には、幾筋もの畝が並ぶ畑と、その向こうに煙を上げる農家の屋根があった。
あのとき、死と隣り合わせで進んだ戦場の道は、今、こうして土に還っていく。
戦で得た地に、命が根を張り始めている。
その現実を、オズベルは無言で受け止めていた。
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