第29話 従士の責
湿った風が吹き抜けた。
戦の気配を残して、草地は泥に変わっていた。踏みしめられた大地に、血と土と、潰された草のにおいが沈殿している。遠くで、まだ数羽の烏が輪を描いていたが、もはや鳴き声さえ届かぬほど、高く舞い上がっていた。
オズベルは、槍の柄を肩に立てかけたまま、息を吐いた。濁った息が、土の匂いとともに口から漏れた。膝に泥がついている。肩には、重い血の跳ねが乾きかけてこびりついていた。
敵は退いた。完全な撤退ではなかった。だが、それ以上押してこなかったというだけで、こちらにとっては救いだった。
周囲の兵たちは、誰も声を出さなかった。皆、黙っていた。
戦の最中に叫び合っていた男たちも、いまは無言だった。疲れ果て、泥の中にへたり込んだ者もいる。目を伏せ、ただ槍を地に突き刺したまま肩で息をしている者。口を開けば、出るのは呻き声か、よろけるための命令くらいだった。
けれど、誰も乱れてはいなかった。
――持ちこたえた。
それだけが事実だった。補給も、増援もなかった。指示も途中で途切れていた。それでも、命令は守った。隊列を乱さず、足を止めず、退くこともせず、最後の合図が鳴るまで、前を見据え、敵を睨み、槍を構えた。
それを可能にしたのは、名でもなければ、奇策でもない。
ただ、槍を立てる人間が一人、前にいたからだ。
「……終わった、んすかね」
後ろからそう呟いたのは、隣の小隊の副士と思しき若者だった。声の主はオズベルに向けたというより、自身の疑念を吐いたに過ぎない。
オズベルは振り返らなかった。
彼にはもう、敵の姿が見えない以上、応える必要もなかった。
ただ、彼の周囲にいた兵の数人が、自然と彼の方を見た。目を伏せた者もいたが、見上げるように視線を送る者もいた。
その視線が、何を求めているか、彼には分からなかった。
けれど、何かが変わったことは、確かだった。
それは、泥の中に放られた敵兵の兜――誰の名も知らぬ兵の血に塗れたそれとは、まるで重みが違っていた。
オズベルは、乾きかけた指で、穂先を一度だけ拭った。鉄の冷たさが残るその槍は、今は誰のものでもないように見えた。
だが――たしかに、彼の手の中にあった。
日が傾く前に、報告のための一団が組まれた。
斥候の一人が、「敵影、完全に遠ざかりました」と伝えたのは、まだ戦場の泥が乾ききらぬうちのことだった。追撃の命令は下らなかった。戦果を求めるような雰囲気では、なかった。現場をまとめていた騎士補佐らしき男は、兵の状態を見て「立つだけで十分」と呟いたという。
オズベルは、槍を携えたまま、戦場をあとにした。汚れた鎧もそのままに、血に染まった装具も洗われてはいない。
向かった先は、主――ファーレン=グライスの詰所だった。
まだ陽はあったが、屋内はすでに蝋燭が灯されていた。木製の簡素な机の上には、地図と指令書の断片が広げられており、使い慣れたペンが斜めに置かれている。
扉の前に立ったとき、扉の内側から声がした。
「入れ」
命じられるまでもなく、オズベルはすでに片手で扉を押していた。ギイと軋んだ音が響く。
ファーレンは椅子に腰を下ろしたまま、視線だけを向けた。甲冑は半ば脱がれ、上衣の袖をまくりあげたまま、彼は一言も発さない。無言のうちに、視線だけで報告を促した。
オズベルは床に片膝をついた。
「敵兵、撤退。追撃の気配なし。損耗、我らの側で二。重傷者四。指揮系統の乱れなし。隊列維持完遂」
短く、だがひとつも曖昧にせず、言葉を並べた。
それを聞いたファーレンは、短く息を吐いた。それは笑いではなかった。だが、いくぶんか緊張の色を失わせたものであったのは確かだった。
「お前が指揮を執ったのか」
「はい。敵の足並みが乱れたため、進撃は抑え、固守に切り替えました。命令の一時不通あり。ですが、その後の伝達で全列に情報は行き渡っています」
「判断は正しい。……いや、必要以上に正しかったな」
ファーレンの口調に、いつもの鋭さはなかった。重みと疲労の混じる声で、それでも評価を口にした。
「俺が判断を下す前に、お前が終わらせていた」
それは叱責ではなかった。皮肉でも、責任逃れでもなかった。むしろ、それは従士に向けた誇りの共有に近い声音だった。
だがオズベルは、うつむいたまま、答えを返さなかった。
ファーレンは静かに椅子から身を起こした。机の上の紙束をひとつ取り、手元に寄せると、ぽつりと呟いた。
「……明日には、査定官が来るらしい。上の誰かが、戦場を見に来たそうだ。お前の名も、どうやら報告には載ってるらしいぞ」
オズベルは、すぐには反応を返さなかった。
名。
それは、槍を構えた誰かの背に与えられるものではなく、槍を構えさせた者に対して刻まれるものだと、オズベルは知っていた。
焚き火の明かりが、石造りの詰所の壁を照らしていた。
湿った夜気が、肌に貼りつくように漂う。兵たちの多くはもう眠りに就いていたが、従士らが集う奥の小部屋には、誰ひとりとして寝具に身を投げる者はいなかった。
オズベルは、黙って椅子に座っていた。
肩から外した鎧は、まだ乾ききっていない。血の滲んだ擦れ跡、割れかけた革綴じ、折れた留め具。昼に交えた槍の重みが、身体から抜けていない。
部屋の隅には、ラルスがいた。壁にもたれ、腕を組んでいる。その視線は定まらず、時折、天井の梁を見上げては小さく舌を鳴らす。
他の従士二人――ベルンドとジークは、どちらも無言だった。互いの目を合わせようとせず、机の上に置かれた水差しの傍で、じっと火の揺らめきを見つめている。
言葉が、なかった。
今日、自分たちが「従士」として戦場を駆けたという事実が、まだ身体の内で火照りにも似た感覚となって残っていた。
ラルスが口を開いたのは、ようやく炭火が小さく弾けたあとだった。
「……あれが“責”ってやつか」
低い声だった。誰にも問うていない。だが、その言葉がこの場の空気を変えた。
ベルンドが、そっと顎を引く。ジークは言葉を飲み込みかけたが、何も言わなかった。
ラルスは続けた。
「どこを見て動くかじゃねえ。どこを“見させるか”だ……あいつは、それをやってた。無意識にな」
誰かが言うべき言葉を、ラルスは代弁したのかもしれなかった。
オズベルは、反応しなかった。顔を伏せたまま、ただ静かに、手のひらで自分の膝を押さえていた。
「なあ、ハスタ」
呼ばれて、わずかに顔を上げる。
「――お前、最初の槍を覚えてるか?」
思わず、言葉に詰まった。
覚えている。覚えていないはずがない。槍の重み、手の震え、前に立っていた男の瞳。そのすべてが、今も指先に焼きついていた。
「……あの時と、何が変わった?」
ラルスの声には怒りも嘲りもなかった。ただ、真実を問いかけるような、乾いた響きがあった。
オズベルは、ゆっくりと答えた。
「俺の立つ場所が……変わった」
言ったあと、自分でもその言葉が何を意味するのかを考えた。
それは、誰かに立たされたものではなかった。自ら立った、という感覚。
そして、その重み。
ラルスはふっと鼻で笑った。
「――そうかよ。それなら、背中は預けるぜ」
それは、戦友としての宣言だった。
静かな夜は、火のはぜる音と、蝋燭のかすかな揺らめきに包まれていった。
翌朝、霧は早々に晴れ、詰所の周囲は、昨日の戦を忘れたかのように澄んだ空気に包まれていた。
だが兵たちの間に走った噂は、消えるどころか熱を帯びていた。
「グライスの従士、三人で敵を蹴散らしたらしい」「“ハスタ”が獣みてえに駆け抜けたってよ」「指揮官の従士が槍ごと兵ごと押し通した」――そう口々に言い立てては、真偽も確かめぬまま笑い声が起こる。
オズベルはその輪の外にいた。詰所の裏、水場の桶の前で槍の穂先を磨いていた。
革巻きの破れかけた穂の根を、いつまでも指先でなぞっていると、後ろから気配がした。
「噂、聞いたか?」
振り返ると、ラルスがいた。髪を濡らしたまま、肩に外套を引っかけている。
「……ああ、少しだけ」
オズベルはそう答えて、手を止めなかった。
ラルスは軽く顎をしゃくった。
「気にするなよ。俺たちが言ったわけでもねえ。見てたやつが、勝手に言いふらしてんだ」
オズベルは首を振った。
「気にしてない。……ただ、なんで“俺たち”なんだろうって思っただけだ」
ラルスが眉を上げる。
「どういう意味だ?」
「俺たちは命令されたとおりに動いただけだ。ファーレン様の指示に従った。それだけのことなのに、“褒められる”のは、何か違うような気がして……」
しばし沈黙が落ちた。
ラルスはそれを破るように、やや低い声で呟いた。
「お前、変なとこ真面目だよな。でも――」
言いかけて、口をつぐんだ。
代わりに、詰所の方から新たな足音が響いてきた。
「おーい! 従士ら、集合だとよ!」
呼ばれたのは、ファーレンの副衛士――昨日、先陣の任を伝えた壮年の兵だった。
「お前らに直接伝達がある。主君からだ」
それを聞いた瞬間、ラルスの顔が引き締まった。
オズベルも立ち上がり、槍を肩に掛ける。
二人して詰所の前に出ると、すでにベルンドとジークも呼び出されていた。四人が並ぶと、兵は一礼して後ろへ下がった。
その向こうから、ファーレン=グライスが歩いてくる。
昨日とは異なり、鎧は軽装だった。だがその動きに迷いはなく、従士たちの前に立つと、正面から一人ひとりを見た。
ファーレンは言った。
「――昨日の戦、よくやった」
それだけだった。だが、その声には明確な“評価”が込められていた。
従士たちは思わず背筋を伸ばした。
ファーレンは続けた。
「余人に褒賞を与える命は出ていない。だが、俺は俺の裁量で動く。お前たち四名、正式に《随従従士》として登録する。今後、外郭任務・野戦任務において、俺の直属とする」
息をのむ音が、ラルスの口元から漏れた。
それは、従士の中でも「信任を得た者」に限って与えられる立場だった。従士としての地位が上がるわけではないが、従騎士の信任の証であり、次なる昇進――従士長補任など――への足がかりともなる。
ファーレンは言葉を止めず、最後に言い添えた。
「報奨の金も、名も、ない。だが、それを誇れ。お前たちは、俺の“責”に応えた。ならば、俺も応える。それだけだ」
言い終えると、彼は背を向けた。
従士たちは何も言わなかった。言葉が要らないと思えた。
オズベルは、ようやく目を閉じた。
手の中の槍が、少しだけ軽くなった気がした。
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