第15話 列の名に懸けて
空が重い。夏の終わりにも似た湿った曇天が、地上のすべてを押し潰そうとしていた。
その下を、ひとつの軍団が行軍している。
――土を踏む、鉄の音。
――槍を支える、革の軋み。
――列を成す、何百、何千という人間の息。
泥濘に沈みながらも、戦列は崩れなかった。
左右の間隔は三歩、前後は四歩。槍の穂先は上を向き、鎧は鈍く曇った陽光を弾いている。
「列、間隔そのまま! 手綱よし、槍は立てろ!」
号令が繰り返され、数百人の列が律動する。
オズベルは、その中にいた。
副列長の位置――列の中央やや前方。指揮の補助として歩を進めながら、隣り合う兵の足取りに目を配る。
その背後には、ノラン、ロドリク、ベーネ、エルらが続き、さらにその後方に無名の兵士たちが十数人連なっていた。
「……すげえ、数……」
ノランの低い呟きが、肩越しに聞こえた。
目の前の道には、果てしなく続く戦列がいた。
騎兵、弓兵、荷駄隊、魔法兵の群れ。そのすべてが、同じ方向へ、同じ歩調で進んでいる。まるで動く街そのものだ。
そして――その頭上。
一定間隔ごとに立てられた長槍に、赤地に金の双頭鷲がはためいていた。
「帝国旗……」
誰かが呟いた。だが、それだけではなかった。
帝国旗の隣には、それぞれ異なる色と紋章を刻んだ数十の旗――諸侯の家旗が掲げられていた。
あるものは黒地に鹿、あるものは緑に三つの塔。あるものは銀の剣に月の印。
旗は軍の“出自”を示し、同時に“視認点”としても機能する。混成された軍の中で、列ごとの統率を保つための要。
オズベルは、自分たちの列の先頭に掲げられている旗に目を向けた。
くすんだ赤に、白い鋤と稲穂――その紋章に、彼はまったく見覚えがなかった。
「……これ、誰の旗なんだ?」
無意識のうちに漏れた問い。
だが、誰も答えなかった。ノランもまた、黙ってその旗を見上げていた。
(帝国軍、じゃないのか……)
思えば、自分がいつ、誰に属して徴兵されたのか――まともに考えたことがなかった。
徴兵官が村に来て、紙に名前を書き、軍靴を渡され、荷車に乗せられた。
ただそれだけの流れだった。
いま、その延長線上にあるのが、この巨大な軍団。
自分はその中の、どこの誰の列に組み込まれていたのか。
初めて、「所属」という概念が、重くのしかかってくる。
「おい、歩幅! 狭まってるぞ!」
マリオンの怒声が飛んだ。列長として最前を行く彼は、機敏に振り返りつつ指示を出す。
「副列、調整しろ! 中段、三番と五番、半歩下がれ!」
「了解……中段、三番と五番、半歩後退!」
オズベルが繰り返すと、列の一部が素早く動く。
その統率に、後方の兵がわずかに頷いた。
この列は、帝国本軍のものではない。おそらく、どこかの領地の“領主軍”――私兵団に近い性質のものだ。
それでも、統率は維持され、帝国旗の下に編成されている。まさに混成軍だった。
「……でもまあ、どこの旗の下だろうが、やることは変わらないっすからね」
ノランが苦笑まじりに呟いた。
その横顔を見つめながら、オズベルはそっと頷いた。
(自分が何者かもわからないまま、戦っていたのか……)
だが、その思考を断ち切るように、前方から角笛の音が鳴り響いた。
「前衛、配置につけーッ! 列、間隔維持して展開せよ!!」
布陣の号令だ。
彼らの列も、平原に面した丘陵の手前で停止し、展開の準備に移る。
これから、本当の戦場に入るのだ。
混成された軍の一部として、自分たちは――その一歩目を踏み出そうとしていた。
進軍はやがて停止し、広く開けた平原に面した丘の上に軍列が展開された。
帝国旗が高く掲げられ、それに従って列ごとに布陣の号令が飛ぶ。前衛、中衛、後衛にわかれた部隊が、それぞれの持ち場へと動き出していた。
「我ら、第三列第二大隊、前衛左翼中段に展開! 前方との距離十五間を確保、左翼列と接続を維持せよ!」
伝令の叫びに合わせて、列が動き出す。
オズベルたちの列も、丘陵から下る形で平原へと降り、やや斜面気味の位置に足を止めた。足元は粘ついた泥と乾いた草。嫌な具合にぬかるんでいる。
「ふう……戦の前ってのは、いつもこんなに忙しねぇな」
ベーネがぼやきながら槍を土に突き立てた。
その隣で、エルが静かに首を横に振る。
「前衛の列が揃えば、すぐ始まる。向こうも、もう来てる」
確かに、遠くの地平に、敵軍の旗がいくつもはためいていた。
風に乗って、馬のいななき、鉄のきしみ、軍旗のはためきが音として伝わってくる。
オズベルは周囲を見渡す。
彼らの列のすぐ左に、別の軍列があった。そちらには見覚えのある旗が掲げられている。黒地に金の三塔――帝国でも屈指の大諸侯の紋章だった。
(……あれが、名門の旗か)
兵たちの装備も違った。彼らの列では、鎧が新しく、槍も鋼製。馬も重装備の騎兵が混ざっていた。
対して、オズベルたちの列は、革の継ぎ合わせ、鉄板の当て布、柄のすり減った槍。
明らかに、同じ軍の一部とは思えない差があった。
「隣はラーヴェン辺境侯の旗だ。あっちは名のある連中さ」
マリオンがぽつりと口にした。
「俺たちみてぇな寄せ集めと違って、あそこは家臣筋で固められてる。兵も慣れてるし、補給も厚い。ま、見りゃわかるだろ」
オズベルは再び自分たちの旗を見た。
赤地に白の鋤と稲穂。――いまだにその紋章に聞き覚えはない。
だが、いまさら名前を問うのも気が引けた。
「隊列確認! 魔法兵、後列に配置。印を結ぶ準備、よし! 騎兵、左翼斜め後方で待機!」
叫びが飛び交い、軍は着々と陣形を整えていく。
帝国軍といえど、その実態はいくつもの小さな軍の寄せ集めであり、それぞれが“旗”のもとに動いていた。
そして、そういう仕組みでこそ、こうした大軍は成り立っていたのだ。
オズベルは思う。
(誰に仕えていようが、いまこの列を任されてるのは……俺たちだ)
槍の先を正面へ向け、彼は泥に足をしっかりと埋めた。
風が、遠くの敵旗を揺らしていた。
戦列の先にある丘陵地帯へと、部隊は徐々に歩を進めていた。地面はぬかるんでいたが、混成軍は乱れず、幾筋もの列が同じリズムで進軍を続けていた。
オズベルはその中の一列――第二方陣の左翼、第五列の副列長として、自分の持ち場を守っていた。
背後には十数名の兵士。その動きに乱れがあれば、即座に列が崩れる。そうなれば前列も、隣の列も混乱し、敵の突撃を招くだけだ。
「踏み出す足、揃えろ。……槍、少し高く」
抑えた声で告げる。声を張れば隊全体に響いてしまう。副列長の指示は、列の中だけで共有されるべきものだった。
「了解っす、副列長」
すぐ後ろからノランの返答が返る。いつもの砕けた口調だが、その声に緊張の色がにじんでいた。
「……この緊張感、すげえっすね。なんか、空気が刺さってくるみたいっすよ」
「……しゃべるな。息、整えとけ」
「了解っす……」
オズベルは、前列に立つマリオンの背中を見つめながら、足の運びを一つずつ確認する。
そのとき――
「聞いたか!? 副列長の言うとおりだ! 踏ん張れ! ……押し返すぞ!!」
隣の列から怒声が飛んだ。どうやら小規模な衝突が先端で起きたらしい。
ただし、ここではまだ敵影はない。あくまで接敵の“前兆”が現れているに過ぎなかった。
魔法兵が列の間を移動していく。手には杖や印符。火と氷、雷と風、複数の術式を保持する兵たちが、あらかじめ割り振られた隊列間へ配置されていく。
属性は、兵にも秘匿されていた。仲間にさえ正体が知られぬよう、術式の系統は伏せられている。
それでも、彼らが“火を操る者”か、“氷を纏う者”かなどというのは、術が発動された瞬間にわかる。ならばそれを“敵に先に晒さない”ことが重要なのだ。
「……魔法兵、配置完了っすね」
ノランが低く言った。
「遅れはない。……進め」
オズベルは隊列を前に進ませた。
進軍する戦列の端々には、いくつもの旗が風にはためいていた。
赤地に金の双頭鷲――帝国の軍旗。それと交互に、様々な諸侯の家旗が並ぶ。
獅子、狼、城、太陽。描かれた紋章はどれも見覚えがなかったが、ただ一つ、見慣れた“槍”の意匠がある旗があった。白地に黒い双槍。自分の村に時折やって来た徴税使たちが身に着けていた紋章と同じものだった。
オズベルは、はじめて理解した。
自分は――“どこの”軍に属していたのかを。
これは帝国軍ではない。あくまで帝国の号令に従う、あの領主の私兵部隊の一員に過ぎなかったのだと。
「……オズベルさん、どしたんすか?」
「……いや。旗が、見えただけだ」
「旗っすか?」
ノランも同じように顔を上げ、帝国旗と、隣り合って翻る諸侯旗を眺めた。
「……俺らって、帝国軍じゃなかったんすね」
「……ああ。俺たち、“領軍”だった」
小さな会話だったが、胸の奥に何かが沈むような感覚があった。
帝国のために戦っている――そう思っていた。だが、それは間違いではないが、正確でもなかった。
彼らは“徴兵された農民”ではあるが、“皇帝の兵”ではない。“領主の兵”として戦場に立っていたのだ。
この列は、あくまで“使い捨ての歩兵”なのだと、遠回しに知らされたような気がした。
それでも、列は止まらない。
――この旗のもとに生きて、戦う。それが今の俺だ。
心の奥に、小さくそう刻んで、オズベルは前を見た。
矢の音が、空気を切り裂いた。
それは耳で捉えるよりも早く、肌を刺すような衝撃とともに迫ってくる。
瞬きの間に、空が黒い雨に変わった。
「伏せろッ!」
マリオンの怒号が走る。
前衛の兵たちが一斉に姿勢を低くし、盾を頭上に掲げた。
オズベルも咄嗟に身をかがめ、後列の兵たちへ叫ぶ。
「盾、上げろ! 頭を守れ!」
ぴしり、と音がした。横の地面に矢が突き刺さり、泥が跳ねる。
すぐ後ろから、ノランの声。
「うわっ……マジで、やべえっすって!」
「しゃべるな、矢が抜けるまで動くな!」
腹の底に圧をかけ、全身の筋肉を緊張させたまま、耐える時間が続く。
やがて、一呼吸。二呼吸。風が変わり――
矢の雨が途絶えた。
「いまのうちに、整え直せ!」
マリオンの号令に従い、兵たちはすぐさま立ち上がり、隊列を元に戻していく。
崩れていない。誰も逃げ出していない。
それは、この列が“破綻していない”という証だった。
「副、右列が薄くなってるっす。補充、どうしましょう?」
「ロドリクとエル、右へ。詰めろ。ノラン、左の確認を」
「了解っす!」
ノランが走り出し、列の左側へと視線を走らせていく。
そのとき――
「来るぞ!!」
誰かの叫びと同時に、敵の突撃兵が二波、三波と押し寄せてきた。
矢で一部が崩れた後列から、あえて波状攻撃をかけてくるのは、経験ある敵指揮官の采配だった。
兵が崩れ、列が波打ちそうになる瞬間――
「聞いたな!? 副列長の言うとおりっす! 踏ん張れ! ……押し返すっすよ!!」
ノランの叫びが、列の後ろから響いた。
それは緊張に歪んだ声だったが、兵たちの心を繋ぎ止めるに足るだけの“重み”があった。
「……よし。崩すな……ここは、俺たちの列だ!」
オズベルは槍を握り直し、踏み込む。
泥の中で敵兵がのしかかってくる。肩をぶつけ、押し込まれ、それでも足を踏み外さないように耐える。
彼らは、まだ生きていた。
この列は、まだ――生きていたのだ。
突撃の波が引いたとき、兵たちは泥にまみれながらも、ひとつの壁として立ち続けていた。
「……ふぅ、なんとか……持ちこたえたっすね」
ノランが息を吐きながら、列へと戻ってくる。
その顔には疲労の色が濃く浮かんでいたが、確かな安堵もあった。
オズベルは深く頷いた。
「……まだ終わってない。だが――しっかりと戦えている。」
前を見る。旗が揺れている。
その下で、兵たちは列を成し、生き延びていた。
この列が崩れぬ限り、自分たちはまだ戦える。
そう思える瞬間だった。
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