第13話 戦列の歩幅
隊列は、動く城壁のように、泥濘の地を押し進んでいた。
――重く、鈍い、だが確かな歩み。
剣の切先ではなく、槍の穂先が空に向けられたまま、列は前進を続ける。
「間隔を保て! ……そこの、間が空いてるぞ!」
怒声が飛ぶ。だが誰も振り返らない。前を見ることだけが、生き残るための条件だった。
泥に沈む足元。ずぶ濡れの脚絆。気を抜けば、隣との距離も、歩幅も、すぐに崩れる。
それでも、兵たちは歩を止めなかった。
オズベルもまた、その一角にいた。槍を手に、重苦しい鎧の下で、息を潜めながら。
この行軍は、戦の準備だった。
進軍ではなく、整列の訓練。敵地への派兵ではない。だが、これもまた“戦”に繋がる大事な一環だった。
「……列が曲がってる。合図、右前へ半歩」
オズベルは、隊の前列に立つ副隊長に視線を送り、合図の意味を理解した。
先頭から三列目の右翼。そこが少し膨らんでいる。放置すれば、横陣全体の動きが崩れかねない。
「右、半歩……寄れ」
彼の声は小さかった。だが、その指示に、周囲の兵たちは自然と従った。
ほんのわずかだが、列が正された。
――これが、“指揮”というものか。
気づかぬうちに、周囲の視線が変わっていた。
かつては、ただの“でかい新兵”だった。
戦場で吠え、泥にまみれ、死の中から生き延びただけの男。だが今、彼の言葉には重みが宿っている。
「オズベルさん、助かりました……あそこで詰まってたら、俺ら潰されてたかもしれないっすね」
隣に並ぶ青年兵――ノランが、息を吐きつつ言った。
「……ああ」
短く応える。まだ、人を導くには言葉が足りない。
だが、歩幅を合わせ、列を守る。その一つ一つの動きが、いまの彼の言葉だった。
彼は、戦列の中で、確かに“頭を上げつつ”あった。
訓練の終わりは、合図の角笛によって告げられた。
兵たちは、泥だらけの脚を引きずりながら、野営地の方角へと引き返していった。隊列はすでに解かれ、今はただの疲れた男たちの群れだった。
「今日は崩れませんでしたね。……隊長も満足してるんじゃないですか?」
ノランが、肩で息をしながらぼそりと呟いた。
「……そうだな」
オズベルはその隣を歩きつつ、槍を肩に担ぎ直す。水分を吸った革紐が腕に食い込んでいた。重い。だが、慣れてきた。何より、列を崩さなかったことで、不思議と胸の奥にわずかな手応えが残っていた。
「……オズベルさん。どこで覚えたんですか?あの動き」
ノランの問いに、オズベルは立ち止まった。
どこで、などと聞かれても、思い当たるものはなかった。ただ、戦場で生きる中で自然と身についた。それだけだった。だが、言葉にできない。
「……見て、覚えた」
短く返す。
ノランは目を見開いたあと、ふっと笑った。
「……そういうの、やっぱ“勘”ってやつっすかね。俺ら、マネできねえもん」
その時、背後から別の声が飛んだ。
「おい、そこの二人! 呼び出しだ!」
振り返ると、先任兵が手を振っている。名指しされたのは、オズベルだった。
「……俺か?」
「お前だけだ。副官殿からの直命令だとよ」
ざわつく周囲の兵士たち。ノランが小声で、「また何かやったんすか?」と茶化してきたが、オズベルはただ無言で歩き出した。
副官の詰所に通された彼を待っていたのは、戦列隊の副長、トラヴィスだった。
「……オズベル。貴様に、新たな役を与える。……戦列第五班の小隊副列長だ」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「副列長……ですか?」
「そうだ。隊列を維持し、号令の補助を行う。……現場での動きを評価されたと思え。貴様のような奴は、戦場で重宝される」
オズベルは、言葉を失った。
つい数か月前まで、泥にまみれた農地で鋤を振るっていた身だ。それがいま、列の“先頭”を担おうとしている。
「……は」
低く、だが確かな声で応じる。
トラヴィスは軽くうなずくと、帳簿に何かを書きつけた。
「貴様のような体躯の男が、列を引っ張れるようになれば、こちらとしても助かる。……気負うな。命令をこなせばいい。それだけだ」
それだけ。だが、それが難しいのだ。命令を受けるのと、出すのとでは雲泥の差がある。
それでも、オズベルはその場を辞し、帳面に名を刻まれた新たな立場を背に感じながら、再び野営地へと戻った。
目に入る景色は、少しだけ違って見えた。
次の訓練は、いつもよりも張り詰めた空気の中で始まった。
オズベルは列の前寄り――副列長の位置に立ち、手にした槍の柄を握り直す。その背には、十数名の兵が並ぶ。自分が号令の補助をする立場であることに、まだ違和感が拭えなかった。
「号令、聞こえなかったら前を見てろ。副列長の動きに合わせろ!」
軍曹の怒号が飛び、列が一斉に姿勢を正す。その前で、オズベルは僅かに息を整えた。
「……いくぞ」
小声で、だが確かな意思を持って地を蹴る。
槍を突き出し、前進。土を踏みしめる音が列の後方まで伝播していく。以前は他人の動きに合わせていたその足取りが、今は列の“指標”となっていた。
周囲が注視しているのを感じる。だが、だからこそ崩せない。
「……一、二、三――」
腹の底から声を出し、槍を突き出す。ぎこちないが、彼の掛け声にあわせて後続の兵たちが動く。やがて、その列は次第にひとつの流れとなっていく。
訓練後、兵の一人がぼそりと漏らした。
「……あの大男、結構やれるな」
オズベルはそれを聞き流しながらも、肩にかかる重みが、ほんのわずかに軽くなった気がした。
その晩。配給の粥をかきこみ、焚き火の傍で体を温めていると、ノランが隣に腰を下ろしてきた。
「お疲れ様です。副列長殿」
「……やめろ」
「はは、すいません。でも良いことじゃないですか。前に出るってのには意味がありますよ。」
オズベルは答えず、空を見上げた。
星は見えなかった。雲が厚く、風が吹いていた。
「……あのとき、オズベルさんが前に出なかったら、俺たち、今ここにいなかったと思います」
ノランの声は、焚き火の爆ぜる音に紛れて消えかけたが、オズベルには確かに届いていた。
命を救った。そう思ったことはなかった。ただ、あの場で死なないように必死だっただけだ。
「……あれは、たまたまだ」
「その“たまたま”を掴める奴が、戦場じゃ生き残るもんじゃないすかね」
そう言って、ノランは自分の粥をすすった。
火の粉が、夜風に乗って揺れた。
オズベルは、槍を傍らに横たえながら、それを見つめる。
この先、彼が引く列は、もっと大きく、重くなっていくだろう。
だが、それでも。
――一歩ずつ、踏みしめるしかない。
任務内容は、前線から少し離れた廃村の偵察だった。
斥候が「敵影なし」と報告した地域だったが、念のためという名目で、二十名ほどの兵が編成され、その中にオズベルの列も含まれていた。
「夜明け前に出る。全員、食い物と水の確認をしておけ」
軍曹が命じ、隊列が整えられる。
副列長として、オズベルもまた、後方の兵たちを一人ひとり見て回る。剣帯が緩んでいれば結び直し、水袋が破けていれば交換を促した。
「……準備よし」
そう報告を終え、彼は列の前に立った。
まだ冷たい夜気の中、足元には霜が降りている。空がわずかに明るみはじめた頃、隊は出発した。
廃村までの道は、倒木と泥にまみれていた。
地面が緩く、足がとられやすい。だがこの程度は想定の範囲内だ。問題は、村の入口に差し掛かったそのときだった。
――ガシャッ。
音。
金属の軋み、そして――地面を這うような“何か”の唸り。
「伏せろッ!!」
咄嗟に叫んだのは、オズベルだった。
その刹那、廃村の物陰から、矢が飛んだ。
一本、二本。外れた矢が木の幹に突き刺さり、兵の一人が肩を押さえて倒れる。
「伏せろ、矢だ!隠れろ!」
軍曹の怒号が飛び、隊は村の周囲に散開。オズベルは身を屈めながら、負傷した兵士を引きずって木陰へと運ぶ。
敵兵は、たかだか五、六人程度。だが、不意を突かれたこちらは完全に混乱していた。
「オズベルさん! ……どうします!?」
ノランが叫んだ。
オズベルは短く息を吐く。
槍を握り直し、後ろを振り返る。
「三人、俺に続け。右側から回って、矢の発射点を潰す。正面は軍曹が抑えるはずだ」
「……了解!」
返事とともに、三人が立ち上がり、彼に続く。
突撃は一瞬だった。息を殺して村の脇から回り込み、古びた納屋の影へ――そして、一気に踏み込む。
敵の一人が驚いて振り返る。その瞬間、オズベルの槍が、その胸を貫いた。
呻き声。膝を折る敵。
その後ろでもう一人が剣を振るうが、後続の兵が抑え込む。
乱戦の最中、オズベルはとにかく動いた。動かなければ、誰かが死ぬ。その思いだけで、地を蹴り、槍を振るった。
やがて、残りの敵が逃走し、軍曹の号令が響いた。
「全員、点呼ッ! 負傷者は二名、死者なし!」
安堵の声がいくつか漏れる。
オズベルは、血に濡れた槍を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
「……副列長、ありがとよ。あんたが動いてなきゃ、もっと死人が出てた」
兵士の一人がそう言い、ノランが笑った。
「これでますます目立ってしまいますね、オズベルさん」
オズベルは答えなかった。ただ、槍を静かに地面に突き立て、朝の冷気に深く息を吸い込んだ。
――死なせない。できる限り。
その誓いは、戦場においてどれほど重いものか、まだ彼にはわかっていなかった。
だがそれでも、歩みは止めなかった。
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