第18話 旅情②

 夕食時で混み合う、バス停前の茶餐廰。宇津木が牛肉炒め飯をかっ込みながら、黒島に尋ねる。


「病院行ってきたんだろ。内臓、どうだって?」


「無傷だ。問題ない。防刃チョッキの衝撃吸収パットが仕事したんだろうな」


 黒島は、フレンチトーストを小さく切って口へ運んだ。


「結局、昨晩の連中は何だったんだ?H.B.Rの海上アジトの警備員ともまた違うようだったが」


 夜闇に紛れるような黒いカンフー服。今時の香港では逆に目立ちそうだが。


「黒剣の連中さ。あのカンフー服、要所要所に防弾・防刃素材を縫い込んであるんだ。パッと見のデザインは伝統的だけどな」


「H.B.Rの差し金か?」


「いや、昨晩のに限っては、狙いは俺の方。あとは、小手試しもあったんだろうけど」


 宇津木が、やれやれとばかりに首筋を掻いた。15年近くも放置しておいて、今さら宇津木を討ち取りに来る意味が分からない。


「H.B.Rじゃないのか…。奴らはアジトの防戦のために、第2諜報班を殺させたはずだが。なぜ、俺達のことは見張っているだけで何も仕掛けてこないのか…」


 黒島が呟く。


「考えられるのは、泳がされているってとこかな。T部隊との接触を待って一気に叩くつもりなんじゃねぇの」


 宇津木が牛肉炒め飯を平らげ、セットのコーヒーを啜った。


「それなら第2諜報班だって立場は同じだ。T部隊と彼らが接触するのを待って一気に叩けばいい」


 H.B.R内部で何らかの状況が変わったのか。


「なんだか、“T部隊と接触させる”という方針自体、後からついてきたようにも感じるんだ」


 黒島が小さくコーヒーを啜る。


「うーん…始めは、第2諜報班を殺して情報を断てば、作戦不能でT部隊は帰国すると思った…が、香港内に潜伏してしまったので、反省して今度は引きずり出すことにした…とか?まぁ、この辺りになると、推論だらけになって心許ないけどな」


「そうだな…必ずしもH.B.Rの筋書き通りに事が展開しているとは限らない…か」


 敵の筋書きを読もうとするとつい忘れがちになるが、論理の綻びは、筋書きではなく単純に敵のミスだったりもする。

 宇津木がコーヒーを飲み終わったのを見て、黒島が立ち上がる。


「ん?お前、もう要らねぇの?」


 フレンチトーストは3分の1ほど残されていた。


「充分だ」


 黒島が、大きめのカーディガンの袖で口元を覆う。一応、内臓は無傷との診断だったが、油の匂いがやけに鼻について、胃がむかむかする。


 ――これもストレスか?


 ままならない身体に、いっそう苛立ちが募る。昨晩だって、急にぐらついて後れを取ったのだ。情けない――ぎり、と唇を噛みしめた。




 フラットに戻る頃には、黒島の胃のむかむかは、はっきりと吐き気に変わっていた。口を開ければ吐きそうで、2階についた途端、トイレに直行した。

 吐き戻せば、少しスッキリする。部屋に戻り、もう寝てしまおうとベッドの梯子に足をかけた。


「お前、吐いてんのか」


 ベッドの下段で壁を背に座っていた宇津木が、固い声を掛ける。


「ああ、今日は胃の調子が良くなくてな」


 さりげなく答えて、黒島はベッドの上段に上がり込んだ。


「まさか、ここんとこずっと吐いてたのか?ただでさえ食わねぇのに?」


 勘が鋭い。実際その通りだった。毎食、吐く分を補おうと無理に詰め込んでは吐く、の繰り返し。


「“今日は”と言っただろう。吐く分食べれば、問題ない。おやすみ」


「おい、話は終わってねぇ。お前、眠れてもいないだろう」


 下段から響く宇津木の声は、はっきりと苛立ちを含んでいた。


「昨晩、お前が青龍刀たたっこまれる瞬間、見てたけどな。ありゃ、やられたんじゃねぇ。自損事故だ。お前が万全なら、ナイフ戦で後れを取るような相手じゃねぇよ、あの動きならな」


 上段からの返事は返ってこない。


「食わねぇ、眠らねぇでどうする気だ。作戦地に死にに来たのか?それじゃ、お前がふだん説教食らわしてる戦闘部門の連中と変わらねぇだろ」


 普段、血気ばかり逸りがちな戦闘部門の連中に、生き残って任務を全うするための準備だ、情報だと口うるさく言っているではないか。


「…うるさい」


 呟くような声が上段から振ってくる。黒島が自分自身、不甲斐なく思っているだろうことは、宇津木も充分気がついている。しかし、違うのだ。この現状で気にかけるべきところは、不甲斐ないとか情けないとかそんなことではない。


「お前、こっち来い」


 宇津木が上段に声を掛ける。


「…行ってどうする。お前が来い」


 フンと鼻を鳴らす音がした。


「意地張ってんじゃねぇ。昔みたいに抱っこで寝かしつけてやろうって言ってんだよ。こんなぼろいベッドの上段に2人も寝たら倒壊するだろうが!」


 しばしの沈黙。まだ意地を張るか、と宇津木が口を開きかけたとき、そっと白い足首が梯子を降りてきた。


「抱きたいなら、そう言えばいい」


 黒島がするりと宇津木の腕の中に入ってきた。


「けっ、作戦行動だ、作戦行動」


 滑らかな肌に手を沿わせれば、ひんやりとした心地が返ってくる。


「冷えてんじゃねぇか」


 温めるように、大きな掌が黒島の指先を握り込んだ。


「元からだ」


 撥ねつけるような口ぶりに反して、黒島は大人しく宇津木に背中を預けた。もともと低体温気味で、温かいものには弱いのだ。


「食わねぇからだよ。燃料不足」


 しばらく抱き込んで、温めてやる。細身の身体は宇津木の懐にすっぽりと収まり、身を任せるように瞳を伏せていた。


 ――こんなに小さかったっけ。


 普段の強気な態度からは意外なほどの、華奢な身体。


「寝付けなくなって何日目だ」


 宇津木がそっと黒島に囁いた。


「ん…、3、4日…」


 宇津木の右手が細い腰を掴むと、黒島はびくりと身体を跳ねさせた。


 「人間な、寝ないと疲れを溜めて動けなくなる」


 宇津木が黒島の腰を手で温めてやる。


 「…知ってる」


 は…と熱い吐息が漏れる。


 「寝て調子整えて、食って入れた燃料を燃やして動かすのが人体」


 宇津木が優しく黒島の髪を撫でた。


 「…ああ…」


 黒島の手がシーツをぎゅっと握りしめた。


 「お前の身体もそう出来てんの。…なのに、いつも気力に頼りすぎだ、お前は」


 もともと食が細くて小さな身体を気概と努力で鍛え上げ、戦場を生き抜いてきた黒島の強さは、宇津木も知っている。だからこそ、黒島が、身体が動けなくなっても気力で引っ張ろうとしてしまうのが、気になっていた。今、必要なのは、不甲斐ないとか情けないとか気持ちをむち打って奮い立たせることではなく、ちゃんと寝て食べること。


「体調整えるのに必要なら、添い寝くらい何でもねぇ。俺を頼れ。毎晩でも抱いて寝てやる」


 黒島は背を向けたままだ。


「…余計な気は使わんでいい。お前には颯君がいるだろう」


 宇津木が、ふ、と笑った。


「おう。俺には可愛い颯が待ってるからな。無事に帰るためにも、相棒のケアはさせてもらうぜ」


 黒島の返事はなかった。


「――なぁ、お前がそんなに頑ななのは、あの頃、エロい目でばっか見られてたからか?」


 ふと、宇津木が呟く。は、と黒島が嗤うのが背中越しにわかった。


「訓練校時代に手当たり次第抱かれていたのは、俺自身の選択だ。今更どうこう言うつもりもない」


 宇津木の手がそっと黒島の髪を梳かす。


「…傷ついてたんだよな?誰かを失って」


 黒島が軽く息を呑んだ。宇津木が優しく黒島の握りしめた手を包み込む。


「でもさ、今はお前には春陽がいるだろ。彼女を助け出すためにも、ここでちゃんと睡眠とってさ…」


「わかっている!わかっているのに…眠れないんだ」


 黒島が叫ぶように吐き出した。宇津木がゆっくりと頷くと、黒島は小さく呟いた。


「…姉が、いた」


 唐突な黒島の告白に、宇津木は面食らうように口を閉じた。


「こうやって、二人で一緒の毛布にくるまって…朝を待っていた。誰かが折檻されて泣き叫ぶ声を聞きながら…12歳までずっと一緒に…」


 わずかに黒島の声が揺れる。


「あの日、姉は帰ってこなかった。約束したのに、帰ってこなかったんだ。人間がいなくなるのなんか、一瞬だよ。春陽だって、もしかして、もう二度と…ッ…」


 黒島の拳が震えている。――守れなかった姉の笑顔が浮かぶ。重なるように春陽が香港任務に発つ後ろ姿。黒島の視界が涙に滲んだ。

 その肩を、宇津木が優しく包んでさする。


「うん、ありがとな。話してくれて。それが不安だったんだな」


 黒島は肩を震わせて泣いた。宇津木が静かに黒島の背中を抱きしめた。


「…水、要るか?」


 黒島がこくりと頷くと、宇津木は耳に軽くキスをして起き上がった。共用の冷蔵庫にボトル入りの水を置いてある。勝手に飲まれてなければいいのだが。




 宇津木が水を取って部屋に戻ると、黒島は起き上がってテーブルを出していた。相変わらず、復活の早い奴だ。


「お、サンキューな。ほら、水」


 テーブルにボトルを置く。それをコップに注いで、んくんくと飲み干す白い喉が窓からの薄明かりに映えて、宇津木の瞳が釘付けになる。仕草の1つ1つが優美な男だ。しなやかな指がコップをテーブルに置く。


「ありがとう…宇津木」


 気がつけば、宇津木の腕の中で黒島はクタリと寝入っていた。


「綺麗だよなぁ…」


 つ…っと頬の傷をなぞる。


 ――醜い、だろう?


 昔から、口うるさい奴だった。無神経の、気を遣えの、デリカシーのと、何かっちゃあ正座でネチネチと詰められた。


「でもな、誰かを気ィ遣って大事にしようって思ったの自体、初めてだったんだぜ?」


 10年前、噂の“ビッチ”を初めて抱いた日。いつも通りガンガン突いて気持ち良くなって、ふと見た黒島の表情に心臓を掴まれた。羞じらいと淫らな陶酔の混じった顔。マスクを剥ぎ取った時の、震える全貌。自分が、身体なんかよりもずっと奥に隠された何かに踏み込んだのだ、と気付いた。「それ」は透き通るように無垢で、儚くて、綺麗で…滑らかな肌を貪りながら、一生懸命、大事に、繊細な何かを壊さぬように抱き締めた。あの切ないような想いは、まるで――…


「…柄でもねぇな」


 ころりと、黒島の横に寝転がる。若干狭いが、今晩はこれでいい。


 ――明日ンなったら、また澄ましたツラして戻ってこいや。なぁ、黒島。


〈つづく〉

 

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