第34話 帰都

 春の風がフェルシェルの丘を撫でていく。

 まだ朝霧が薄く残るなか、城門前には旅支度を整えた騎士たちと馬車が静かに並んでいた。白い息を吐く馬たちが蹄を鳴らし、空気は少しだけ緊張を帯びている。


 リヴィアは淡い桜色のマントを羽織っていた。

 その姿はすっかり“王女”である。気高く、静かに、けれど確かに芯を宿した姿。

 この地で過ごした日々が、彼女を強くしたのだ。


「元気でね。いつでも戻っておいで」


 イザベラはリヴィアの手をしっかりと握りしめた。

 それは、言葉以上に多くの思いを伝えてくれる温もりだった。


「イザベラさんも……お元気で――」


 帰ってきたい。でも、それは言えなかった。

 

「お寒くはありませんか?」


 ヴァルトの声が背後から届く。

 いつもの低く落ち着いた声。ほんの少しだけ、それが胸に刺さった。


「……いいえ、大丈夫です。春の風は、少し寂しくもありますけれど」


 リヴィアは微笑んだ。まっすぐに、何事もなかったかのように。

 彼に悟らせるわけにはいかない。もう、そういう想いは終わったのだ。


 ――そう、自分に言い聞かせるように。


 この土地を離れるのは、思っていたよりも心細かった。

 でもそれ以上に、ここにはもう、未練を抱いてはいけないものもあった。


「ヴァルト様、そろそろ準備が整います」


 マルセルの声が響き、ベルトランが馬を牽きながら控えている。


「……行きましょう、リヴィア王女殿下」


「はい、フェルシェル侯」


 お互いの距離を示すような呼び名。

 それが必要なものだと理解していても、胸の奥に小さな棘が刺さる。


 リヴィアは馬車に乗り込む前に、一度だけフェルシェルの丘を振り返った。

 ここで得たものも、ここで終わった想いも、すべて胸の奥にしまい込む。


 ――ありがとう、さようなら。

 

 そう心の中で呟くと、彼女は前を向いた。


 こうしてリヴィアは王都への道を進みはじめた。

 


 *


 一月ほどの旅を経て、リヴィアはかつての故郷に足を踏み入れた。


 王都は、記憶の中にある景色とは少し違っていた。

 城壁の石は磨かれ直され、街路の並木は剪定されて整っている。時間の流れは、人も街も変えていく――それは、当然のことだった。


 けれど、変わったものの中でも、最も胸に残ったのは――離宮だった。


 かつてリヴィアが暮らしていた離宮は、あの絢爛さを失っていた。

 金の欄干も、色彩豊かなタペストリーも取り払われている。

 その代わりに、木の質感を生かした静かな調度や、落ち着いた色合いの織物が配され、空間には凛とした気配が宿っていた。


 そこにはもう、華美さのなかで誇りを誤解し、虚飾の夢に溺れていた昔のリヴィアに似合う場所はなかった。


 案内された離宮で、リヴィアはつかの間の休息を取っていた。

 豪奢さを控えた、落ち着きのある室内。それはどこかフェルシェルの領主邸に似ていて、かえって心をざわつかせた。


 ――もう、戻れない。


 そう思うたびに、胸の奥が静かに痛んだ。

 遠く離れた地でようやく見つけた温もり。それを自ら手放した事実が、今もリヴィアを締めつける。


 (イザベラさん……)


 そばにいてくれた、あの人の手の温かさをふと思い出す。

 言葉少なでも、迷えば背を押してくれた。黙っていても、心に寄り添ってくれた。

 けれど今は、もういない。自分の背を押す者も、寄り添ってくれる者も――。


 そのとき、控えめなノックの音が室内に響いた。

 「どうぞ」と声をかけると、見覚えのない女官が静かに入ってきた。


「リヴィア王女殿下。お疲れのところ恐れ入ります。陛下――アレクシス陛下が、今宵の晩餐をご一緒にと」


 ――アレクシス。


 その名が告げられた瞬間、鼓動がひとつ跳ねた。

 覚悟はしていた。遅かれ早かれ、彼とは顔を合わせなければならないと。

 最後に会ったのは、父王の亡骸を前にした、あの夜だった。冷たい光を宿した目が、リヴィアをまっすぐに射抜いていた。


 あれから、何が変わったのだろうか。

 彼は今、どんな思いで“王女”の称号を与えたのだろう――。


 問いは胸の内で渦巻いたが、答えはどこにも見つからない。

 それでもリヴィアは顔を上げ、「晩餐に参ります」とだけ伝えた。


 女官は一礼し、音もなく部屋を後にした。


 残されたリヴィアは、そっと目を閉じた。

 自分で、自分を支えなければならない。あの人の手を借りることは、もうできないのだから。

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