第30話 ペンダント

 いつまでもヴァルトから逃げ続けるわけにはいかない。

 何としてもこの状況に慣れて、彼に悟られないようにしなければ――。


 リヴィアは意を決して、机越しのヴァルトをまっすぐ見つめることにした。

 頬が熱くなるのを無理やり無視して、落ち着いたふりをしながら。


 だが、そんな視線にさらされるぬ側――ヴァルトの方はと言えば、戸惑いを隠せなかった。


「……何か、顔についているか?」


「い、いえ。何も。ただ……今後のために、少し見ていてもいいですか?」


「……今後の、ため……?」


 ヴァルトは思わず眉をひそめたが、真剣な顔で見つめてくる彼女に押し切られ、少し間を置いてうなずいた。


「……構わないが」


 その返事を聞くなり、リヴィアはますます集中するようにヴァルトを見つめはじめた。


 ――だがそれは、ヴァルトの脳内で思いがけない誤解を生んでいた。


 (……もしかして俺の仕草や言葉遣いを学ぼうとしているのか?)


 以前、「話し方がわからない」「人前で上手に話せない」と悩んでいたことを思い出し、ヴァルトは一人で納得する。


 (なるほど、勉強熱心なのはいいことだな……だが、さすがにこの見つめられ方は……落ち着かん)


 視線を逸らそうとするも、リヴィアは微動だにしない。手元の書類をめくるたび、何気ない一言を発するたび、彼女の視線がすぐに反応するのがわかる。


 (……いや、これはもはや訓練か? 演説の練習か何かか?)


 その日の夜、もやもやしたままイザベラに相談した。


「最近、リヴィアの様子がどうも変でな……ずっとこちらを見てくる。何かの観察か訓練か……?」


 イザベラはヴァルトの話を聞くなり、にやりと笑ってから肩をすくめた。


「ふふ……あのくらいの年頃の娘にはありがちなことですよ」


「ありがち……?」


「ええ。そりゃもう、ある意味“成長”ですから」


 ヴァルトは腕を組んで一人うなずく。


「……そうか。年頃……それなら仕方ないか」


 そう言いながらも、どこか腑に落ちない様子で湯をすするヴァルト。


 その背中を見つめながら、イザベラは小さくため息をついた。


(ほんと、鈍いんだから)


 ヴァルトは生真面目すぎるほどに、生真面目な男だ。

 いつも冷静沈着で、公私のけじめを何よりも重んじる。

 だが、その真面目さゆえに、肝心なことに気づけない――人の心の揺れや、誰かの視線に込められた想いすらも。


 普通なら、気づくだろう。

 あのリヴィアの態度の変化にも、表情の端に滲む戸惑いや、頬を染める瞬間にも。

 けれどヴァルトは、的外れな解釈で自分を納得させてしまった。


(これまで、どれほどの娘たちがあんたに秋波を送って……それに気づいてもらえず、悔し涙を流したことか)


 すこしばかり想像するだけで、イザベラは苦笑を浮かべる。


(まったく、罪な男だよ。うちの領主様は)


 誠実で、公正で、誰に対しても分け隔てなく優しい――だからこそ、誤解もされるし、心を寄せた相手にも気づけない。

 それがこの領地で最も信頼される男の、ほんの少しの欠点だった。



 *


 その夜、領主邸の廊下にはほとんど人通りがなく、静かな足音だけが石畳に淡く響いていた。


 リヴィアは、忘れ物を取りに戻っただけだった。

 けれど、ふと開け放たれたままの執務室の扉の隙間から、中に人影があるのが見えた。


 ヴァルトだ。


 机に向かっているその姿勢は、昼間と何ひとつ変わらないはずだった。

 けれど――違和感があった。


 いつものように書類に目を通しているようでいて、その表情はどこか遠くを見ているようだった。

 厳しいでも優しいでもない、誰にも見せたことのないような、ひとりきりの横顔。


 声をかけようとした瞬間だった。


 ヴァルトがそっと胸元に手を伸ばした。


 小さな銀のペンダントを取り出す。

 それを両手で包みこむように持ち、まるで壊れ物に触れるような、優しい手つきで――唇を寄せた。


 ほんの一瞬の仕草。

 けれど、それはあまりにも親密で、敬虔で、侵してはいけない領域のもののようだった。


 リヴィアは咄嗟に柱の陰に身を隠した。


 見てはいけないものを見てしまった。

 そんな予感が、背筋をひやりと撫でた。


 誰のものなのだろう。

 あのペンダントは。

 なぜ、あんなにも大切そうに、まるで恋人のように、口づけを――。


 頭の中に浮かぶ想像を、リヴィアは必死でかき消そうとした。


 けれど、胸の奥がざわざわと騒ぎ始めていた。

 まるで、まだ言葉にならない感情が、形を持たずに膨れ上がろうとしているように。


 嫌な予感がする――。


 *


 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、リヴィアは寝台に体を横たえた。

 けれど、瞼を閉じても心臓の鼓動はやけに速く、胸の奥が落ち着かない。嫌な動悸が止まらなかった。


 ――あれは、いったい何だったのだろう。


 開かれた執務室の隙間から見た、ヴァルトのあの横顔。

 いつもは冷静で、威厳をまとった背中。なのにあのときは、どこか遠くを見つめるような、寂しげな顔をしていた。


 そして――あの小さなペンダントに、そっと唇を寄せる仕草。

 まるで祈りのような、愛おしむような、静かな口づけだった。


 心の中に、答えの出ない疑問が渦を巻く。


 ――誰だったのだろう。

 ヴァルトの心にいる、その人は。


 婚約者が王都にいるのかもしれない。

 あるいは、かつての恋人。亡くなった想い人。許されぬ恋。

 そういった言葉が次々と頭を巡り、思考をせき立てる。


 (関係ない。私には関係ない……)


 そう繰り返しながらも、胸の中のざわめきは消えなかった。



 *


「皆、おはよう」


 翌朝。

 ヴァルトはまるで昨晩のことなど初めから無かったかのように、いつも通りだった。


 寂しげな影も、沈んだ様子も、どこにも見当たらない。

 そこにいたのは、威厳と自信に満ちた“領主様”――リヴィアのよく知るヴァルトだった。


(……私の勘違い、だったのかもしれない)


 昨夜、扉の隙間から見えた光景が、まるで夢のように思えてくる。

 あのペンダントは、きっと家族から贈られた記念の品か、あるいは神への祈りに使う大切なものなのだろう。


 前者なら、遠く離れた家族を想って――。

 後者なら、信仰を胸に祈りを捧げて――。


 ……そう、あれはそういうもの。恋の証なんかじゃない。


 必死に、そう自分に言い聞かせた。


 けれど、心の奥にわだかまるあの光景だけが、いつまでも静かに、そこに居座っていた。

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