第13話 補佐官

 少年の母が亡くなってから、一月あまりが過ぎた。

 ヴァルトはその死を教訓とし、町の医療体制の見直しに着手した。

 もっとも、人手も物資も圧倒的に足りていない現状では、目に見える成果はまだ乏しい。


 リヴィアは最近、ヴァルトに同行して、時折城下町に足を運ぶようになっていた。

 炊き出しや農作業の手伝いなど、王宮では経験したことのないことばかりだったが、不器用ながらも真剣に取り組んでいる。


 中でも驚かされたのは、領主であるヴァルト自身が、ほとんどすべての現場に顔を出していることだった。

 家屋や城壁の修繕、料理、農作業、犯罪の取り締まり――。

 本来の領主の職務をこなしながら、そんな雑事にまで身を投じている。


 なぜそこまで自ら動くのか、不思議に思って一度だけ尋ねたことがある。


「人が足りないなら、やれる者がやるのが当然だろう?」


 その一言に、飾らない彼の本質がすべて詰まっていた。


 「やれる者がやる」――その言葉が、リヴィアの胸に深く残った。

 以前の自分なら、決して口にしなかった言葉だ。

 この頃には、リヴィアの中にヴァルトへの素直な敬意が芽生えつつあった。


 フェルシェルの復興は、ここにきて加速度的に進み始めていた。

 新たに即位した国王アレクシスのもと、ようやくこの地にも以前より多くの物資が届くようになり、各地から技術者の派遣も少しずつ始まっている。


 とはいえ、ヴァルトの忙しさが軽減される気配はなかった。

 むしろ人手が増えた分、指示すべき事柄も、担う責任も増えているのだろう。


「補佐官が必要だな……」


 ふと、そんな独り言が彼の口から漏れた。


 本来ならば、フェルシェル各地にいる騎士たちが補佐役を果たすべきなのだろう。

 だが彼らもまた各村の治安維持や再建で手一杯で、領主邸のある町には報告に立ち寄る程度しか顔を出せていない。


 ヴァルトは、アレクシス王に補佐官の派遣を願い出たものの、中央もまた新体制への移行期で、なかなか適任を回せる状況にはないようだった。


「このままじゃ、領主様。あんたが倒れちまうよ」

 使用人頭のイザベラが、腕を組みながらそう言った。

「補佐官になれそうなやつ、フェルシェルにいないかね? 条件さえ言ってくれれば、探してやるよ」


 さすがは顔の広いイザベラだけあって、自信満々に人探しを買って出た。


「条件か……そうだな」


 ヴァルトはしばらく考え込んだあと、ゆっくりと口を開いた。


 一つ目は、最低限の読み書きと算術ができること。

 二つ目は、ヴァルト自身が信頼できる人物であること。

 三つ目は、フェルシェルを大切に思っていること。

 そして四つ目――私情を捨てられること。


「……ちょっと抽象的すぎないかい?特に二つ目なんてさ――」


 イザベラが眉をひそめる。

“ヴァルトが信頼できる人物”となれば、そこらの青年というわけにはいかない。


 フェルシェルの識字率は、かなり低い。文字を「読める」者すら少なく、「書ける」となればなおさらだ。ましてや算術となれば、そんな人材はとっくに要職に就いているに違いない。


 いかに顔の広いイザベラでも、すぐに思い当たる者はいなかった。


「――読み書きができる人って、そんなに少ないのですか?」


 リヴィアの問いには、素朴な驚きがにじむ。

 生まれてこの方、彼女の周囲には読み書きのできる人間しかいなかった。


 王侯貴族にとって、文字の読み書きは当然の教養。自国語と公用語の両方が扱えなければ、政略結婚すらままならない。算術はリヴィアの苦手分野だが、簡単な計算程度は当然できる。


 薬草棚の管理はイザベラの役目だ。であれば、彼女もまた文字を読めるのだろう。

 だからリヴィアは、フェルシェルの領民も当然のように読み書きができるものと信じて疑わなかった――。


「庶民にとっちゃ、読み書きなんて必要ないのさ。男は力仕事ができて、畑を耕せて、家畜の面倒が見られれば十分。女なら料理に裁縫、子守ができる子が重宝される。学なんて、暮らしには縁遠いよ」


 かく言うあたしも、とイザベラは少しだけ口元を歪めた。


「嫁に行くまで、字なんて一つも読めなかったよ。うちは貧しかったし、女に学なんて必要ないって言われて育ったからね。

 でも、医者のところに嫁いじまって……薬の名前も帳面も読めなきゃならないってんで、嫌でも覚えたのさ」


「イザベラさんが補佐官では駄目なんでしょうか」


 ぽつりと口にしたリヴィアの問いに、イザベラは肩をすくめた。


「あたし? 読み書きはできても、計算はからっきしだよ。せいぜい家畜の頭数を数えるのと、物を売ったときにお釣りを間違えない程度。

 ………それにねぇ、女が数字なんかいじってると“利口ぶって生意気”だなんて言われたもんさ。教わる機会すらなかったよ」


 農民たちも、大半はその程度の算術しか持たないという。商人や聖職者ならもう少し計算に長けているようだが、彼らには彼らの役目があり、簡単に引き抜ける相手ではない。


「領地の管理となると、商売とは勝手が違う。商人の倅に『よしなに頼む』なんて、軽々しく声をかけられるもんじゃないよ」


 だが、そうなると補佐官は中央から派遣されるのを待つしかない。しかしそれでは、先にヴァルトが倒れてしまいそうだった。


「……リヴィア。あんたはどうだい?」


 イザベラが、何か閃いたように顔を上げた。


「え? 私?」


「曲がりなりにも王族だろう? 読み書きはできるだろうさ。算術はどうなんだい?」


 正直に言えば、リヴィアは算術が苦手だった。専属教師には叱られてばかりで、自分でも得意とは言えない。


 ヴァルトが持っていた帳簿に目を落としたリヴィアは、じっと内容を眺める。


「読み書きは、まあ……確かに。でも算術なんて、せいぜいこの帳簿を月ごとの収支にまとめて、年単位で分類するくらいしか……」


 セレスティアなら、この帳簿から問題点を洗い出し、翌年の税率見直し案まで作ってしまうだろう。それくらいの芸当は、彼女にとって朝飯前だった。


 リヴィアの教師は、こうしたことができない彼女を「王族としての能力が低すぎる」と嘆いた。乳母はというと、セレスティアにできてリヴィアにできないことを決して許さず、リヴィアがつまずくたびに折檻を加えた。


 それが嫌で、リヴィアはしばしば算術の授業から逃げ出した。隠し持った菓子を一人で食べながら、慰めるように時を過ごした。いつしか体は重くなり、顔には吹き出物が増えたが、厚塗りの化粧で隠してしまえば気にならなかった。ぱさついた髪もコテで巻いて複雑に結い上げ、装飾品を飾れば、王女らしく見える。それさえ整えていれば、乳母は何も言わなかったのだから。


「……十分な気がするが――」


 地方領主の補佐官としては、リヴィアの能力は十分すぎるほどだ。時には夫の代理として領政に関わる地方貴族の娘であれば、それくらい算術ができれば上等と言える。


 もちろん、国王になる予定だったセレスティアや、他国の王妃として嫁ぐ可能性がある王女にとっては、それでは不足かもしれない。だが、リヴィアは妾腹の王女に過ぎず、血筋からしても正妃として迎えられることはない。せいぜい、他国の王子か公爵程度に嫁ぐのが関の山だ。


 そう考えれば、リヴィアがそこまで卑屈になる必要はない――はずなのに。


 ヴァルトは、初めてリヴィアという人間に、奇妙な違和感を覚えた。


「なら、リヴィアが補佐官代理で問題ないように思えますけどね? 能力的にも申し分ない」


 イザベラがちらりとリヴィアに目を向ける。


「それは――だめだ。イザベラの手伝いがいなくなる」


 ヴァルトは首を横に振って拒否したが、イザベラはなおも食い下がった。


「だったら、正直言ってこの娘がいないほうが、無駄にハラハラせずに済むよ。それに、下働きの代わりなんていくらでもいるだろう?」


 「無駄にハラハラ」と言われ、リヴィアは少しだけ傷ついた。


 家事能力に関しては、自分でも子ども以下だという自覚がある。この辺りの十歳にも満たない少女たちの方が、よほど役に立っている。


 アンヌたちにも、「そんなんじゃ、嫁の貰い手はないね」と、本気で心配されてしまったのだ。


「……リヴィアは虜囚の身だ。だから、領主補佐官代理などという役目は任せられない」


 ヴァルトの声は低く抑えられていた。表面上は規律に則っただけの判断だったが、胸の奥には別の感情が渦巻いていた。


 イザベラが、ふっと息を吐く。


「まったく、領主様は固いことばかり言われるねぇ。役に立つ者がいるのに、もったいないったら」


「下働きの補充はいずれ考えよう。……リヴィアをここに置いているのは、君の負担を減らすためじゃない」


 そう言いながらも、ヴァルトの視線はほんの一瞬、リヴィアの姿をとらえた。気づいた彼女が、そっとこちらを振り返る。伏し目がちの瞳に浮かんでいたのは――諦めだった。


(……違う。信じてはいけない)


 信用などできるものか。彼女は、あのカリクスト二世の娘だ。少年を助けたのも、仕事に熱心になったのも、高慢な王女の一時の気まぐれにすぎないのかもしれない。


 そう、頭ではわかっている。けれど、それを彼女の前で言葉にすれば――傷つけてしまいそうな気がして、口にはできなかった。


 リヴィアは、ヴァルトが思っていたよりもずっと……年相応の、普通の女の子だった。

 

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