第11話 厳しい現実
フェルシェルの町は、領主邸の真下に広がる城下町だ。教会や鍛冶場、商店が並ぶ通りが続き、民家も点在している。その外側を城壁が囲み、さらにその外には豊かな農地が広がっていた。
――それは、昔の話。今では荒れ果てた街並みが痛々しく広がっている。
町の中心部には広場がある。ヴァルトはほぼ毎日のようにその広場に通い、必要な物資を手渡し、住民たちの困り事に耳を傾けては対応していた。
「今までは食糧を配っていたが、調理ができない者もいるし、『温かい食事が食べたい』という声もあってな。少し前から有志に手伝ってもらい、炊き出しを始めたんだ」
馬の背に積まれていた食材などは、その炊き出しに使うためのものだと、ヴァルトは説明した。
準備に集まっていたのは、いずれも年配の御婦人方だった。
「領主様、いつもありがとうございます」
「いえ、感謝するのはこちらの方です。せめて少しでも報酬をお渡しできれば良いのですが……」
「何を言ってるんだい。こっちは好きでやってるのさ」
豪快に笑う女性達の目は生き生きと輝いていて、悲壮感などどこにも無かった。
「領主様、今日も一緒に作るかい?」
すると、ヴァルトは首を横に振った。
「いや、今日は家の修繕作業を手伝う約束があってな。悪いが、今日は一緒に作業はできないんだ」
リヴィアは驚いた。貴族というものは、男女を問わず料理などしない者がほとんどだ。
それなのに、ヴァルトほどの男がご婦人方に混ざって炊き出しをするなど、信じがたい話だった。
それだけではない。今、彼は何と言った?
領主である自らが、家の修繕作業をする、と――。
ヴァルトという男は、これまで出会った誰ともまるで違っている。
「おや、そこのお二人は……イザベラさん! イザベラさんじゃないか!」
どうやらご婦人のひとりが、イザベラと顔見知りらしい。
「久しいね、アンヌ」
「イザベラさんこそお元気そうで! もっと城下に降りてきてくださいよ」
和気あいあいと、イザベラとアンヌは話を弾ませる。すると他のご婦人方も次々に集まり、イザベラを囲んで会話に花を咲かせはじめた。
そういえば、イザベラの夫と息子は町で医者をしていたと聞いたことがある。
彼女が顔の広い人物であることも、納得できた。
「イザベラさん、そちらの方は?」
ふとリヴィアに気づいたご婦人が、イザベラに問いかけた。
「……ああ、これはあたしの遠縁の娘でね。さすがに歳だろう? 呼び寄せて手伝いをさせてるのさ」
もっともらしい説明に、皆はすぐ納得したようだった。
「イザベラさんの遠縁だって? 名前はなんて言うんだい?」
――ここで取り乱しては、怪しまれてしまう。
せっかくイザベラが機転を利かせてくれたのだ。無駄にするわけにはいかない。
「……ミラと申します」
咄嗟に口をついて出たのは、そんな名前だった。
「ミラかい! よろしくね」
明るく歓迎してくれるご婦人達にリヴィアの胸はチクリと痛む。こんなにも、良い人達の家族や家、故郷を奪ったのはリヴィアの父だ。
乳母は平民など汚らわしく、下等な者たちだと言っていたが、どうだろうか。貴族たちの様にあからさまにすり寄って瞳の奥ではリヴィアを笑っていることのほうがよっぽど下劣ではないか。
アンヌの瞳には、嫌悪も嘲笑もなかった。そこにあったのは、確かな信頼だった。
「イザベラさん、私……私も、炊き出しを手伝いたいです」
気づけば、そんな言葉がするりと口をついて出ていた。
領民と深く関われば、いつかボロが出て正体が知られるかもしれない。それがどれほど危険なことか、理解していた。
けれど、それでも――リヴィアには、アンヌたちを知ることが大切な気がしてならなかった。
「何を言って――」
ヴァルトが怪訝そうに眉をひそめて口を開きかけた、その瞬間――それを遮ったのはアンヌだった。
「いいじゃないかい、領主様。あたしたちは人手があればあるほど助かるし、本人がそう言ってるんだ。やらせてやりなよ」
「しかし……私は家の修繕に行かねばなりません。この土地に不慣れな彼女を一人残していくのは――」
「心配症だね! ――もしかしてミラは、領主様の“コレ”かい?」
隅に置けないね、とアンヌがニヤニヤ笑った。
『コレ』の意味が分からず、不思議そうな顔でイザベラを見ると、彼女はなんとも言えない複雑な表情を浮かべるばかりで、答えてはくれなかった。
「違いますよ。彼女はイザベラの遠縁です。何かあれば、預かっている者として示しがつきませんから」
「あら、そうかい。……つまらないね」
『コレ』の意味はさっぱりわからなかったが、なんとなく揶揄われたのだけは察することができた。
「領主様、あたしがついております。何かあれば、すぐにお呼びします」
「ほら、イザベラさんもそう言ってるんだしさ。それに、このフェルシェルで領主様の知人にちょっかいかけるような命知らずなんて、いやしないよ」
リヴィアは戸惑いながらも、少しだけ安堵してヴァルトを見上げた。
彼はしばらく何かを言いかけたようだったが、結局、静かにうなずいただけだった。
「……では、よろしくお願いします。イザベラ」
「かしこまりました、領主様」
イザベラの返事は、いつもどおり丁寧だった。けれどその瞳の奥に、わずかに読み取れたものがある。
戸惑い――それとも、別の何か。
けれどリヴィアには、それが何なのかまではわからなかった。
ヴァルトが背を向けて去っていく。その足音が遠ざかっていく間、誰も言葉を発さなかった。
「さ、おしゃべりはおしまい。仕事仕事」
アンヌが手をぱん、と叩いて明るく言い、空気が和らいだ。
リヴィアはイザベラのほうをちらりと見た。
声をかけようか迷ったが、その険のある横顔に、ためらいのほうが勝った。
黙って、アンヌのあとについて歩き出す。
*
炊き出しを手伝う、と言ったはいい物の――リヴィアは足手まといでしかなかった。
包丁を握ってまだ数週間のリヴィアと、熟練の主婦とでは、手際も何もかもが違っていた。
「そんな手つきじゃ見てるこっちが怖くなっちまうよ」
この調子じゃ日が暮れる、と判断されたのか、リヴィアは配膳係に回されることになった。
落ち込んだものの――それは、彼女の本当の望みを叶えることになる。
列をなすのは、年老いた者と小さな子どもばかり。骨ばった手足、窪んだ眼窩。生気など、風にさらわれて久しい。
木の器に盛られた大麦の粥には野菜や干し肉が細かく刻まれて浮かんでいる。屋敷でリヴィアが毎日食べているのと変わらないような食事だ。
聞けばこれは毎日食べられている普通の食事らしい。
イザベラが嫌がらせでリヴィアに粗末な食事を与えているのだと思っていた。だが、そうではなかった――これが、フェルシェルの“日常”だったのだ。
「お姉さん……お母さんの分も、貰えないかな……?」
弱々しい口調で一人の少年がリヴィアに問いかけた。
ボロボロの服には穴が空き、靴も履いていない。その姿は、まさに浮浪児そのものだった。
「お母さんはどちら?」
「家だよ……病気が重くて起き上がれないんだ」
非常に困ったことになった。アンヌから並んでいる人数分以外は渡してはいけないと言われている。中には家族の分だと嘘をついて何杯もお代わりする者がいる。なるべく多くの人に渡すためには一人につき一杯と決めているのだ。
その代わりに、ヴァルトが家族の人数に応じた食糧の配布を行っていると聞いている。
「ごめんなさい。並んでいる人にしか渡せない決まりなの。食糧は足りなかったかしら?」
そう問うと少年は首を振った。
「お母さん、もう干し肉や干し野菜は固すぎで食べることが出来ないんだ。かまどが壊れてるからお粥も作れないし……だから」
言葉が詰まり、リヴィアは唇を噛んだ。
「……ちょっと、待っていて」
少年はうなずき、列から外れた壁際にしゃがみこんだ。他の人々の視線を避けるように、静かにうずくまっている。
――待っていてくれている。その姿が、胸を締めつけた。
配膳がすべて終わると、リヴィアは炊き出しを仕切っていたアンヌのもとへ駆け寄った。
「どうしても、あの子のお母さんに食事を届けてあげたいのです。干し肉も干し野菜も食べられないそうで……せめて、お粥だけでも」
アンヌは困ったように眉をひそめた。
「気持ちはわかるけどね。並んでいない人に渡してはいけないって決まりだよ。あの子だけ特別扱いすれば、次も、その次も……きりがなくなる。皆、何かしら事情は抱えてるんだ。かえって混乱を招くことになるよ」
「でも……!」
思わず声を荒げたが、すぐに言葉を飲み込んだ。支援は公平でなければならない。例外を認めれば、不正や混乱につながる――それは理解できる。
けれど、それでも。見過ごすことだけはできなかった。
次に、リヴィアはイザベラのもとを訪れた。
夫と息子が医者だったと聞いている。ならば、誰か医師に心当たりがあるかもしれない――そんなわずかな望みに縋って、リヴィアは深く頭を下げた。
「イザベラさん、お願いします。助けてください」
イザベラは怪訝そうな顔でリヴィアを見下ろした。
「……何があったんだい」
リヴィアは、少年の話をすべて打ち明けた。
イザベラはしばらく黙って聞いていたが、やがて大きく息を吐き出した。
「残念だけど、医者はいないよ。皆、あの日に殺されちまった。領主様が派遣を頼んでるらしいけど、国中がこんな有様だからね。そう簡単には来られないだろうさ」
厳しい現実だった。けれど、彼女はそこで話を終えなかった。
難しい顔をしたまま、ぽつりと続ける。
「あたしは……医者の妻だった。結婚してからはずっと、夫の手伝いをしてたよ。煎じ薬を作ったり、寝かせ方を工夫したり、怪我人の世話をしたり。診断や治療までは無理だけど、簡単な手当てなら、できなくもない」
その言葉に、リヴィアは胸が詰まりながらも深々と頭を下げた。
「こんなこと、私の立場でお願いするのは烏滸がましいって分かっています。でも……今、頼れる人はイザベラさんしかいないんです。どうか、お母さんを診てあげてください。食べることもできなくて、寝たきりだって……」
目の奥がじんと熱くなる。けれど、泣くわけにはいかなかった。泣きたいのは、きっと――あの少年のほうだ。
イザベラは眉をひそめ、腕を組んで黙り込んだ。やがて、低い声で言う。
「……私は医者じゃない。病の原因を突き止めることも、治すこともできない。薬も、数は限られてる。それに――勝手に動ける立場でもないんだよ」
そう言いながらも、彼女の目には迷いが宿っていた。
「でも……そうだね。体を拭いてやったり、温めたり、楽な寝かせ方にしてやるくらいはできる。薬草が手に入れば、せめて痛みくらいはやわらげてやれるかもしれない」
「それでも十分です……! お願いです、どうか助けてあげてください」
リヴィアの必死の願いに、イザベラはわずかに頷いた。
「領主様に話を通しな。それで許しが出れば、行ってやるよ」
イザベラの言葉を聞いたリヴィアは、礼もそこそこにその場を駆け出した。
――ヴァルトに頼まなくては。今の自分には、誰かを救う力なんてない。けれど、ヴァルトの許可があればイザベラも動いてくれる。
けれど。
(どこにいるの、ヴァルト……!)
リヴィアは町の道を走りながら、何度も辺りを見回した。領主邸にはいなかった。少し前に、町の修繕作業に出ていると聞いていたが、それがどこなのか、リヴィアには分からない。
知っているのは、炊き出しをした広場くらい。町の全体像も、道の繋がりも、何も知らなかった。
(こんなとき、町をちゃんと見ておけばよかった……)
息を切らしながら、行き交う人々に尋ねる。
「領主様を……ヴァルト様を見かけませんでしたか?」
振り向いた老女が、「ああ、さっきはそこの鍛冶屋の裏にいたよ」と教えてくれた。
「ありがとうございます!」
礼を言って走る。だが、そこに着くとヴァルトの姿はなかった。今度は近くの若者が、木材を担ぎながら教えてくれた。
「今は南の壁を見てると思うぞ。崩れたとこがあるから、補強してるはずだ」
もう一度礼を言って、リヴィアは走った。足がもつれそうになる。底の薄い革靴の裏が土に滑って転びそうになるたびに、気持ちばかりが先走った。
(お願い、間に合って……)
ようやく見つけたのは、町の南側――半壊した石壁のそばだった。
ヴァルトは腕まくりをして、男たちと一緒に石材を持ち上げている。遠くから見ても、汗で濡れた髪が額に貼りついているのが分かる。
「ヴァルト!」
リヴィアは叫んだ。
驚いたようにヴァルトが振り向く。
その顔に、泥と汗と、ほんのわずかな困惑が浮かんでいた。
「……どうした。何かあったか?」
息を切らしながら、リヴィアは一歩近づいて頭を下げた。
「お願いがあります。どうしても、助けたい人がいるんです」
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