空想病棟ファンタズマ ~この世界は"嘘"で救われている~
ソコニ
第1話『はじまりの部屋』
名前を、叫ぼうとした。
でも、声が出ない。
少女は喉を押さえた。確かに叫んでいるのに、音が消えている。まるで、存在そのものを否定されているみたいに。
わたしは、誰?
白い天井がぐるぐると回る。頭の中に霧がかかったように、何も思い出せない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴があいていて、大切な何かがこぼれ落ちていく感覚だけがある。
「声、出ないでしょ」
振り向くと、窓際に少女が立っていた。
黒髪で、どこか謎めいた雰囲気。でも、その瞳の奥に、言葉にできない悲しみが宿っている。
「最初はみんなそう。名前を失くした子は、声も一緒に失くすの」
少女——ナナと名乗った——は、ゆっくりと近づいてきた。
「でも大丈夫。あなたには新しい名前をあげる。ソラ……空みたいに透明な瞳をしているから」
ソラ。
その名前を聞いた瞬間、声が戻ってきた。
「ソラ……わたし、ソラ?」
「そう。今日から、あなたはソラ」
ナナは窓の外を指差した。
そこに広がる景色を見て、ソラは息を呑んだ。
空が七色に脈打っている。建物が呼吸するように伸び縮みし、雲が逆さまに流れていく。現実じゃない。でも、現実よりもずっとリアルな何か。
「ここは
ナナの声が、遠くから聞こえるみたいだった。
「みんな、
ソラは自分の手を見た。少し透けている気がする。
「わたしも……病気なの?」
「さあ、どうかな」
ナナの笑みが、少し歪んだ。
「でも、あなたには特別な力がある。他の子の空想に入って、その謎を解ける。ただし——」
ナナが振り返る。その瞳に、警告の色。
「謎を解くたびに、あなたは何かを失う。大切な記憶を、ひとつずつ」
ソラの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
失う? これ以上、何を失えっていうの?
でも、選択の余地はなかった。
廊下を歩きながら、ナナが言った。
「最初の患者。タケル、十歳。もう三ヶ月も、同じ夜を繰り返してる」
扉の前で立ち止まる。普通の扉に見えるけど、向こうから冷たい何かが漏れ出ている。
「準備はいい?」
ソラは頷いた。怖い。でも、このまま何もしないほうが、もっと怖い。
扉が開く。
次の瞬間、ソラは教室にいた。
夜の教室。
窓の外は真っ暗で、星ひとつ見えない。蛍光灯がジジジと音を立てて、今にも消えそう。
そして、窓際の席。
小さな男の子が、膝を抱えて震えていた。
その横に、青い風船が浮かんでいる。
糸もないのに、ふわふわと。まるで、誰かの魂みたいに。
「また夜が来た」
少年の声は、諦めに満ちていた。
「でも、朝は来ない。来ちゃいけない」
ソラは近づいた。一歩、また一歩。
近くで見ると、少年の腕にあざがあった。新しいのも、古いのも。
「誰がやったの?」
少年は顔を上げない。
「……お母さん」
その言葉が、教室の空気を凍らせた。
「ぼくが悪いんだ。テストで90点しか取れなかった。お兄ちゃんはいつも100点なのに」
少年の声が震える。
「『なんでできないの!』『お兄ちゃんはできるのに!』『あんたなんか、いらない子よ!』」
母親の声が、教室に響く。少年の記憶が、空間に滲み出ている。
黒板を見ると、チョークの文字。
『ぼくなんか、生まれてこなければよかった』
『お母さんを、幸せにできない』
『消えたい』
ソラの目に、涙が浮かんだ。
違う。違うよ。
「君は、悪くない」
少年が初めて顔を上げた。目が腫れている。泣きすぎて。
「でも、お母さんが——」
「お母さんが壊れてるの。君じゃない」
ソラは少年の隣に座った。青い風船が、二人の間でゆらゆらと揺れる。
「大人だって、間違える。傷つける。でも、それは君のせいじゃない」
少年の目から、新しい涙があふれた。
「でも、ぼくがいい子じゃないから……」
「ねえ、知ってる?」
ソラは青い風船を見上げた。
「夜も朝も、君は君のままでいいんだよ」
その瞬間、風船がぽんと音を立てた。
中から、小さな光が漏れ出す。
「90点だって、すごいじゃない。君は頑張ってる。それで十分」
光が、少しずつ強くなる。
「失敗したっていい。泣いたっていい。それでも君は、大切な君のままなんだ」
少年が立ち上がった。
「ぼく……ぼく、朝を迎えてもいいの?」
「もちろん」
窓の外に、かすかに光が差し始めた。
朝焼けだ。
オレンジ色の光が、教室を優しく包んでいく。
「でも、家に帰ったら、また……」
「大丈夫。君は一人じゃない」
ソラは少年の手を握った。
「つらくなったら、この風船を思い出して。君を守ってくれる」
青い風船が、朝の光を受けてきらきらと輝いた。
そして、ゆっくりと少年の手の中に収まっていく。
「これで、いつでも一緒」
少年が初めて、笑った。
その瞬間、教室が崩れ始めた。
でも、怖くない。朝が来たから。新しい一日が始まるから。
光に包まれて——
気がつくと、ソラは病室にいた。
ベッドには、タケルが眠っている。その顔は、安らかだった。手には、小さな青い風船のキーホルダーを握りしめて。
でも、ソラは立ち尽くしていた。
何か、大切なものを失った気がする。
青い……何だっけ?
思い出そうとすると、頭が痛い。
「最初にしては、よくやったね」
ナナが部屋に入ってきた。でも、その表情は複雑だった。
「でも、もう始まってる。君の"喪失"が」
ソラは自分の手を見た。
さっきより、透けて見える。
「私、消えちゃうの?」
「さあ、どうかな」
ナナは窓の外を見た。
「でも、まだたくさんの子が待ってる。君にしか救えない子たちが」
ソラは震える足で立ち上がった。
怖い。
自分が何者か分からないまま、少しずつ消えていく恐怖。
でも——
タケルの寝顔を見た。
この子は、救われた。それだけで、十分じゃないか。
廊下に出る。
次の扉が、すでに震えていた。
中から、誰かの悲鳴が聞こえる。
助けて、と。
ソラは、また一歩を踏み出した。
たとえ、自分が消えても。
誰かの朝を、迎えさせるために。
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