人ならざるモノ
53
轟音が境界を揺らした。
青と黒がぶつかるたび、虚ろな空間の床も天井もない「どこでもない場所」そのものが波打つ。
澪──いや、高御尾は炎に縁取られた輪郭を纏いながらも、奇妙な静けさで立っている。
直視すれば龍神、視線をほんの少し外せばたしかに人間の澪。
そのあわいに踏みとどまって、黒い影と刃を交えていた。
(……怪異が神と渡り合える? そんなはず、ない……)
胸の鼓動が耳の奥で跳ねる。
黒い影は形を結び切れず、怨嗟と嫉妬と未練の泥を生き物のようにうねらせている。
けれど、澪のほうが圧倒的であることは、素人の私にもわかった。
ひと振りの気迫だけで、空間そのものが鳴る。──それでも決着がつかないのは、澪が「抑えている」からだ。
(だって……最初の一撃の余波だけで、私、あんなに吹っ飛んだじゃない)
思い出しただけで肺が縮む。
さっき、高御尾が正面へ一閃放った瞬間、私は彼の背後にいたはずなのに、余波のような衝撃で虚空に叩きつけられた。
あれでまだ「完全具現」じゃないのだ。
もし本気で龍神になっていたら、私も、影も、この場の何もかもが一撃で消えていると思う。
(……私がここにいる限り、澪は本気を出せない。私が足を引っ張ってる?)
喉が苦くなる。
そう考えた途端、黒い影がゆらりと向きを変えた。
ずし、ずし、と圧が増す。
澪が一歩、私とのあいだに入る。
外套のような青い炎がひらめき、黒の触手を潔く弾いた。
(……待って。今の軌道……私のほうに来てた?)
目を凝らす。黒は定まらない形の無数の指先を伸ばし、四方八方から「一点」を狙っていた。その一点とは──私。
澪が全方向に薄い盾の層を作るみたいに、青炎で撥ね返している。
真正面に集中すれば、攻に転ずれば一撃なのに。
わざわざ全部を見張って、私に一つも触れさせないでいる。
(地獄の口……代償の徴収。石塚に触れた人を食う。今回は失敗したから、ターゲットは私だ……つまり、私を食えば勝ち、なんだ)
そう、地獄の口はわざわざ龍神と戦う意味がないのだ。
背筋が冷える。
同時に、胸の奥がかっと熱くなる。
私が倒れれば、澪は私を守る必要がなくなる。だけど、人間には戻らないだろう。
完全な神へ、堕ちるでも昇るでもなく振り切ってしまう。
(だめ。私が生きていないと、澪は人間に留まらない)
影が蠢き、空間がひとつ息を呑む。
澪の蒼が一段深く燃え、黒を裂いた。
わずかに空白が生まれる。
最初、水色だった炎は藍色に近い濃い蒼になっている。
私はその背へ、もう一度まわり込もうと足を踏み出した──瞬間、空気がひしゃげる音がした。
「っ!」
すくい上げるような衝撃波がかすめ、私はよろめいて片膝をついた。
顔を庇う両腕越しに、ぱきん、と乾いた音。
左手首が軽くなり、床のない床に、小さな銀色の破片が散った。
割れた腕時計。お祭りで奈緒ちゃんとお揃いで買った、馬鹿みたいに笑って選んだおもちゃみたいなもの。
(……今が奇跡なら、この破損にも意味があるはず。奈緒ちゃんの、意味)
私は立ち上がった。
うまく息が吐けないし、膝は笑っている。
それでも、澪の背のすぐ外側──青炎が風のように巻く場所へ踏み入る。
その瞬間、これまで腕止まりだった白い炎が、たまらない衝動に引かれる糸みたいに前へ伸びた。蒼へ向かって、細く、まっすぐ。
「……澪!」
声は震えた。
でも、逃げなかった。
恥ずかしいとか、そんなのは後回し。
あの友達のように、素直に──!
叫んだつもりなのに、囁きになってしまった。
「澪、好き。……大好き。だから、一緒に帰ろう?」
胸が裂けるほど脈が打つ。
言葉が白熱して流れ出し、私の白が澪の蒼に触れ、絡み、混じり、龍神の縁が一瞬だけ波立つ。
黒が呻くように後退する。
虚ろの空間がざわめき、地獄の口の怒りが一段荒くなる。
(退いてくれるわけがない。──だって、相手は弱い私を食べればいいだけなんだもの)
黒い指先が数を増やす。
矢の雨みたいに、静かに、でも執拗に。
澪の青が扇状に広がり、全部弾く。
ひとつたりとも、私の肌に届かせない。
気づけば私は、澪の背に手を伸ばしていた。
触れるか触れないかの距離で、白い火が青い外套に薄く縫いとめられる。
(私の役目は、直接戦うことじゃない。祈るだけでも、ない)
胸の底に、雪子の記憶がぶくりと泡立つ。
もし高御尾様が人間だったら、一緒に生きられたかもしれない──あの儚い夢。
願い、未練、痛み。
(だから澪は人になることを選んだ。巡るために。たった一度だけ見たいと願った夢のために)
青が轟き、黒が裂ける。
澪の咆哮は言葉のかたちをしていたが、私には聞き取れない。
でも、応えたい────。
「澪! ここにいるよ、私! 隣にいる! だから行かないで! 龍神じゃなくて──人間でいて!」
白炎が応える。
私の声を抱いて、青の縁に縫いとめられた白が、するすると広がる。
青と白の二重の光は、まるで二人の影をひとつにする結び目みたいに見えた。
黒の雨が一段と激しくなる。
だが、ひとつも私には届かない。
澪が全部、全部、全部、弾いている。
(……私、守られてる。守られてるから、言える)
黒の波がふくらみ、壁のように迫る。
澪の横顔が、炎の縁越しに一瞬だけ「人」に見えた。
その人は、私を見ない。見なくても、私の位置を全部、知っているみたいに。
(私が死ねば、澪は人でいられない。──だから、絶対に死なない。逃げないでここにいる。それが私の戦い)
足を開き、重心を落とす。
肺の奥を通る空気はざらざらして痛い。
手の甲の痣が白く脈打つ。
白と青はしっかり絡み、境界に光の縫い目を描く。
一瞬、黒の中心に、別の色がちらついた。人の顔みたいな、泣き顔みたいな、怒りと恐怖が混じった影。
私は唇を噛み、目を逸らさない。
澪の青がそこへ直線を引き、黒は爆ぜた。衝撃が遅れて襲い、空間全体がひしゃげる。
「っ──!」
反射で目を閉じる。
……なにも、来ない。
澪の前腕が、盾のように私の前に差し出されていた。
青炎が薄く私の頬を撫で、冷たいのに温かい。
(神は具現化すれば人の命を削る。……だから澪は、ここに留まってる)
直視すれば、もう澪じゃない。
龍神の縁に焼かれた巨きな像。
でも私は、知っている。
その中心には、澪がいる。
私の名前を呼ぶ声を、いつでも人に戻せるように、ぎりぎりで立っている。
「澪」
名を呼ぶと、青の糸が細く震えた。
黒が吠える。
地獄の口が「代償」を求めて開く。
私の白がさらに伸び、青と結んだ縫い目を太くする。影の狙いは変わらない。
すべての矢が、すべての手が、私へ。
すべての盾が、私のために広がる。
(勝敗は、本当はもう見えてる。澪が攻撃さえすれば。──でも、それは違う)
私は、たった一つの言葉をもう一度選ぶ。
「好き。……好きだよ、澪。だから、帰ろう。人間のままで」
白炎が、その言葉を拾って、青に溶けた。
青が、少しだけ震える。
「まだまだ一緒にいたいよ、お祭りだって花火だってまだじゃない。ずっと一緒にいようよ……澪」
痣と同じまでに濃くなった青が。
あの、輝く大蛇の鮮やかな青に変じていく。
(ああ、届いている。澪は聞いている!この青、雪子の好きだった青……)
黒が怯んだ。
境界がゆっくりと、しかし確かに、閉じる方向へ傾く。
そのとき、澪の咆哮が変わった。
蒼い言霊が、はっきりと線を描いて影を貫く。
意味はわからない。けれど──逃げに転じた悪しきものに「終わり」を告げる響きだった。
空間が震え、黒が裂け、光が溢れる。
私は目を開けて、炎の縁の向こうにいる「人間の澪」を、強く、強く思い描いた。
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