踏み出す
翌朝。
朝の光は白く薄く、畳の目を平たく照らしていた。四枚の布団は端へ寄せられ、夜の名残のような体温だけがうっすら残っている。
おばちゃんが味噌汁を温め直し、湯気の向こうで叔父さんが携帯を握った。
「──澪、今日は学校へ行きなさい」
叔父さんの声は、わざと整えたように平坦だった。
「僕は教育を軽んじない。非常時でも、日常を保つことが君の身を守ることになる」
「俺がいないと、千穂を守れない」
タカミオは、かぶせるように短く言い切った。
視線がこちらへ向く。
左手の甲──昨夜、私と同じ痣が浮いた場所が、わずかに握られている。
「気持ちは分かる。でも──」
「気持ちじゃない」
タカミオは言葉を切り、呼吸を整えた。
「説明はできない。けど、俺には分かる。……俺の中の龍が言ってる。『守れ。もう失うな』って。俺が教室にいる間に、もしアレが動いたら、千穂はどうなる?」
叔父さんは目を伏せ、眼鏡の縁を指で押した。
「……昨夜の祓いは、僕も見た。否定はしない。だが、君は祖父さんに預けられている身だ。保護者の許可なく、僕が学校を欠席させるわけには──」
「だったら電話して。俺が説明する」
押し問答の空気は重かったが、どこか清澄でもあった。誰も昨夜を疑ってない。
疑いようのない事実。
だからこそ、ルールを崩す言い訳が要る。
叔父さんは小さく息を吐いて、携帯の画面を親指で叩いた。
「……おはよう、父さん。僕だ。──うん、澪のこと。……ああ、元気だよ。少し、話があってね」
受話器のこちら側だけ聞こえる叔父さんの言葉は、慎重で、律儀で、それでいて昨夜を薄めないように言葉を選んでいた。
「僕は研究者として、例外を出したくない。だけど今日は例外にしたい。──いいや、心配させたいわけじゃない。安全のためだ。……うん、僕が責任をもつ」
返事の合間に、千穂は湯気をじっと見た。
味噌汁の優しい香りが胃に落ちる。
喉がからからで、けれど飲み込めば温度が胸を癒すように撫でていく。
左手の甲の痣は、痛くはない。
周囲の皮膚より冷たく、触れると耳の奥で“チリ”と何かがかすかに鳴った気がした。
「助かる。ありがとう。昼前にまた連絡する」
通話が切れた。叔父さんがこちらを向く。
「父さんが了承した。今日は二人とも休もう」
「うん」
タカミオは短く言い、緊張をほどくように肩を回した。おばちゃんが安堵の息を吐く。
「ほら、まずは朝ごはん。倒れたら守るも何もないよ」
箸を持つ指先が震えた。
昨夜のこと──おばあちゃんの声と背中、湿った夜気、祠の前に走ったままの闇――思い出そうとすると、ぼやけてしまう。
でも、玄関で見た祖母は確かに……千穂が『愛してやまないおばあちゃん』だったのだ。
湯で温められてほどけたはずの何かが、別の硬さで結び直される。
(……おばあちゃんを、盗られた)
その言葉が、ようやく形になった。
(私の『想い』を、まるごと。おばあちゃんを──)
喉の奥が熱くなる。悔しい。
悲しいより、先に悔しい。
気づけば、左手をテーブルの上で握りしめていた。痣の下で、血がゆっくりめぐる。
食後、茶碗を流しに下げると、叔父さんがノートを抱えて座り直した。
「昨夜の振り返りをしよう。事実だけを並べる」
「はい」
力強い声が出たのは、自分でも意外だった。
震えはもうなかった。
「一つ。『迎え』は、昨夜は壁際まで来なかった。遠巻きに止まっていた。──理由は未明に推測した通り、高御尾の『場』に触れたくない、あるいは触れられなかった可能性が高い」
叔父さんはページに“①接近距離”と書き、丸をつける。
「二つ。『音』の誘い。風鈴。ここのお宅では出していないのに、はっきりと全員が聴取った。これは結界の音、あるいは擬態。……過去の数多の例から、人を外へ誘い出すため赤子の泣声や親しい人の声が使われる。昨夜は──」
「おばあちゃん」
言葉にすると、胸の奥がもう一度、音を立てて軋んだ。
おばちゃんが私の肩にそっと手を置いてくれる。
「千穂、無理にしゃべらなくていいよ」
「大丈夫」
私は首を振った。
「聞こえたの。おばあちゃんそのままの声で……呼ばれたの」
叔父さんが頷き、三つ目を書き足す。
「三つ。祠の前で祓いに類する現象。発光、空気の瞬間的な圧変、皮膚感覚としての帯電。そこにいた何かが消失。──観測者三名の目撃一致」
「四つ目は──」
叔父さんを遮り、タカミオが口を開く。
「痣の変化。千穂の右足から、左手へ」
叔父さんは頷き、補足を加えた。
「澪の左手甲と同位置、同形状」
全員が情報を消化するのを待ち、叔父さんは頷いた。
「そして五つ目」
叔父さんが鉛筆を置く。
「当初の澤田君のケースと照合して、二つの物語──高御尾と伊藤家が干渉し合っているという仮説は、昨夜でさらに補強された。……少なくとも、片方だけでは説明がつかないね?」
一呼吸、茶の間が静まる。
風鈴は鳴らない。
かわりに、戸の隙間から湿った風が少しだけ入ってきた。
「祠に行こう」
千穂の強い声に、みんながこちらを向く。
千穂はまっすぐに言った。
「おばあちゃんを盗られたままじゃ嫌。昨夜の場所を見たい。……私の目で、ちゃんと」
おばちゃんが眉を寄せた。
「昼間に、ね。暗いと危ない」
「日が高いうちに往復する。僕も一緒に行く」
叔父さんは頷き、観察道具の小袋を手近にまとめ始めた。
「記録も要る。……澪、準備を」
「了解」
タカミオが素早く立ち上がる。
靴下を履き替え、スニーカーの紐をきゅっと結ぶ。その所作を見ながら、千穂は自分の紐も結んだ。
昨夜、裸足で駆け出した足は、擦り傷と小さな切り傷だらけだ。包帯越しに痛みがうずく。
けど、傷の痛みは見た目より酷くなかった。
もちろん、傷など足を止める理由にはならなかった。
祠へは石垣の細い道を抜け、用水の脇を渡る。五月の光は柔らかいのに、陰の温度はまだ冬の名残りを持っていて、すねを撫でた。
昨夜は闇だったはずのその道が……今日は静かな色を取り戻している。
鳥の影に遠くの田の水面。
(いつもの、風景)
「ここだ」
祠の前で足が止まった。
社の屋根は苔むし、手水鉢には雨が少しだけ残っている。
昨夜の閃光の名残りはない。
けど、嗅いだことの無い匂いが漂っている。
鼻の奥で金属が薄くこすれるような匂い。
髪の毛の先で細い電気が跳ねる感じ。
「オゾン臭……静電気と、土の焼けた匂いが混ざってる」
叔父さんが手帳に書きつけ、携帯で方角と写真を確保した。
「地面の草がところどころ寝ている。圧縮痕だね。さっきの話と整合する」
千穂は祠の木肌に手を置いた。
ひんやりしている。
耳の奥で、また微かな音がして風はないのに、飾りの紐が少し揺れた気がした。
(返して、なんて言わない。亡くなった人が返ってこないものは、知ってる)
胸の底から、別の熱が湧き上がる。
(でも──思い出は奪わせない。これ以上、なにも)
「千穂」
背後で呼ばれて、私は振り返った。タカミオの目がまっすぐだった。
「大丈夫か」
「うん、ありがとう」
それだけを言った。
喉に詰まる熱は、もう痛みじゃない。
言葉の芯に残って、体の中心をまっすぐに温めた。
叔父さんが咳払いをして、現実へ引き戻すように紙を開いた。
「さて。作戦会議だ。裏山の石塚は人柱の跡地でもあるから──いきなりは行かない。今日はまず、ここから先の“縁”の位置を確かめる。境界がどこに引かれているか、歩いて身体で覚える。いいかい、日没前に戻るからね」
「うん」
私は頷き、指を折って数えた。
「持っていくものは――懐中電灯、予備電池、笛、ロープ、塩、救急箱。……鈴も」
「鈴はいい案だ」
叔父さんが目を細める。
「境界で音が合図になる可能性は高い。念のため、三人で持っておくのがいい」
叔父さんは紐を取り出し、三本を同じ長さに切った。
「離れないための物理的な線。今日は手首。万が一、夜間行動になったら腰に換える。良いね」
「了解」
タカミオと私は、手首に紐を巻いた。ぎゅっと結ぶ。
さっきまで冷たかった痣が、その下でじわりと温かくなる。
結び目を指で押さえた瞬間、耳の奥でチリンとあの風鈴の音が一拍だけ生まれて、すぐ消えた。
「……聞こえた?」
私が問うと、叔父さんもおばちゃんも首をかしげた。
「僕には聞こえない」
「私も」
「俺には、少し」
タカミオが短く答える。
「でも──嫌じゃない音だな」
境界の地図を、叔父さんが簡単に新しくスケッチする。
祠から裏山の取り付きまでの距離、分岐、目印になる石。
おばちゃんは台所から小袋を持ってきて、ドクダミ入りの塩を三つに分けてくれた。
「門前で一つまみ。帰る前にもう一つまみ。──昔からの知恵だよ」
私は小袋を受け取り、胸のポケットへしまう。ドクダミの強い匂いと指先に塩のざらりが残る。
奇跡、という言葉を昨夜は遠くに感じていた。でも今は、足の裏から頭の先まで通る一本の柱のように、そこに在る。
「最後に、役割分担を再確認」
叔父さんが手帳を叩く。
「僕は観測と判断。危険なら即時撤退の号令を出す。おばちゃんは家で後方支援、連絡と迎えの準備。──澪は前衛。千穂さんの前にあるものを遮り、対峙する。千穂さんは……」
「私が、呼ばれてる」
言葉が、自然に出た。
「だから、私が拒む。合意しないし、戦うよ。絶対にもう騙されない。……私の足で、戻ってくる」
言ってから、自分でも驚くほど落ち着いていることに気づいた。
手首の紐の結び目が、脈と同じリズムで静かに触れる。
昨夜の私なら泣いていた。
今は泣かない。
ずっと抱えてたいろんなモヤモヤ。
これって、怒りという感情なんだ。
怒りは、泣きたい気持ちと同じ場所にいて、でも違うものだった。
自覚した怒りの感情は、千穂を前へ押す力になっていた。
「よし」
叔父さんが立ち上がる。
「じゃあ、昼過ぎにここを出て、取り付きまでだね。絶対に一線は踏み越えない。兆しが強ければ引き返すよ。夜の行動は、今日の情報をもとに決めよう」
「うん」
おばちゃんが水筒を三本、並べる。
「麦茶にしたよ。角砂糖は少し。疲れたら舐めな」
「ありがとう」
(角砂糖?そこまでおばあちゃんと同じなの)
千穂はクスクスと笑った。
「帰ったら、ちゃんと報告する」
祠の前を離れる前に、私は一度だけ振り返った。昨夜のアレはもういない。
木漏れ日の斑が、境内に揺れているだけだ。胸の奥で、あの優しい『ちーほ』という呼び声が、薄く遠く溶けていく。
言うことを聞くしか出来なかった千穂は、もういない。
今日からは、考えて、自分で決めるじぶんになったのだ。
(行こう)
左手の痣が、静かに同意をした。
タカミオの左手と、同じ場所で。
三人は紐で繋がれ、ゆっくりと裏山の取り付きへ向き直る。
湿った土の匂いが濃くなる。
背中に家の気配、おばちゃんのお店の気配。
一本道──そして、森の縁。
小さく息を吸った。
もう、奪わせない。
ここから先は、千穂の物語だ。
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