裏山
土曜日の朝は、平日よりもずっと静かだった。窓を開けても、田んぼの上を渡る雀の声がするだけで、登校する子どもたちの自転車の音はなかった。
(静かすぎる。昨日までは、外の音に普通を感じていたのにな)
台所ではおばちゃんが茶碗を拭いていた。
鍋はもう火から下ろされ、出汁の匂いも薄くなっている。
「今日はゆっくりしてな。店をちょっと手伝ってくれればいいから」
「はい」
言ったところで、玄関が軽く叩かれた。
おばちゃんが腰を上げて戸を開ける。
「あら、高橋君。いらっしゃい」
入ってきたのはタカミオだった。
パーカーのフードを片手で押さえ、いつもの落ち着いた目つきで「お邪魔します」と短く言った。
(高橋君……おばちゃんにとってはそうなんだ。叔父さんは澪。私は、ずっとタカミオ。呼び方だけで、同じ人なのに知らない人から見たら、違う人と思われる……昔話と、同じだ)
ほどなくして叔父さんも姿を見せた。
手には古地図の写しとメモ。
「今朝、裏山を歩いてきた。小学校の裏にあるあの山だよ」
「ええっ!大丈夫なんですか」
千穂は思わず悲鳴を上げ、立ち上がった。
「歩いてきただけだよ?」
叔父さんは卓袱台に地図を広げながら言った。
「子どもの頃には山登りみたいに思えるだろうけど、実際は標高差は二、三十メートルしかない。里山の範疇だね」
「でもさ、あそこは池があったって昔から言われてるよ」
おばちゃんが口を挟む。
「そう。正確には窪地なんだよね。湧水や雨水が溜まりやすくて、季節によっては小さな池に見えた。村誌には鏡池と書かれていたよ。龍神が姿を映すと」
「……池なのに、今は山に見えるってこと?」
意味がわからず、思わず聞いてしまう。
「同じ場所なんだよ。地形としては裏山の懐にある低地。子どもにとっては山、大人にとっては丘。見る人間の感覚で呼び名が変わる。そういうところから『口』や『池』の言い伝えが育つんだ」
タカミオが短く言った。
「子どもにとっては山、大人にとっては丘……そういうズレが、怪談を強くするんだな」
叔父さんはうなずき、鉛筆で地図に印をつけた。
「伝承っていうのは、事実と感覚の間で育つ。だから面白いんだ」
(池だったのに、今は山。矛盾みたいだけど、実際は同じ場所……?)
昼前、三人で農道を歩いた。
おばちゃんは店番に残ると言い、来なかった。
空気は夏草の匂いが強く、土がまだ湿っている。
「この角までだ」
叔父さんが言った先には、苔むした小さな祠があった。
確か、おばあちゃんは『観音祠』と呼んでいた、と思う。
石の屋根はひび割れ鈴緒は朽ちていて、その先に土手が見える。
さらに奥は、古い地図に描かれた鏡池の跡地だ。
叔父さんが言うには、だけど──
「双眼鏡、使うかい?」
渡された双眼鏡を覗くと、視界が急に近づいた。草の一本一本が刺繍みたいに浮き上がる。
「……暗い部分があります」
声に出した瞬間、背筋が冷えた。
「澪はどうだ」
「黒い。動かない。溜まってる」
叔父さんは頷き、地図に鉛筆で印をつけた。
「やはり止水だね。『口』は流れの切り替わる場所だが、溜まれば『腹』になる。民話で口が腹に変わるとき、災いは深まる……とされていることが多いんだよ」
私は祠の前で小さく手を合わせた。
祖母の名を心に呼ぶ。
風は吹いていないのに、耳の奥で風鈴が鳴ったような気がした。
(気のせい、であってほしい)
帰ってから、叔父さんは地図を卓袱台に広げ直した。
三つの印を線でつなぐ。
──祠、土手、抜け口。
「地獄の口は、まだ閉じきれていない」
その言葉に、空気が冷たくなる。
タカミオがふと私の方を見て言った。
「昨日の合図、忘れるなよ。……三回、間をあけて二回」
「……うん」
夕方には、おばちゃんが封筒を持ってきた。
祖母が残した写しらしい。
その中に「観音女」という幼名が黒い筆で記されていた。
叔父さんは紙をそっと指で押さえながら言った。
「……農村の娘に幼名があるのは珍しいことだ。だからこそ、後の観音清水や観音祠と結びついて伝わったのかもしれない。物語は後から作り替えられるものだけど、こういう名残が核になるんだよ」
(雪子の名前が……観音。偶然じゃなくて、そこから広がったってこと……?)
私は右足に手を置いた。
青い痣は、まだ沈黙を守っている。
夜。
灯りを落とす前に、壁の位置を指で確かめた。三回、間をあけて二回。
返事がなければ無視。
布団に横になると、目蓋の奥に水色の面が広がる。
今日は波紋が二つ、離れて生まれて、やがて重なり、消えた。
外で砂利がかすかに擦れる音がした。
千穂は慌てて壁を指で軽く叩いた。
三回、間をあけて二回。
しばらくして、叔父さんの返事が二度叩き返された。
(大丈夫。今夜は大丈夫)
目を閉じると、名前をひとつずつ沈めていく。お母さん、おばあちゃん、雪子、観音女。最後に、タカミオ。
声にせず、字だけを心の中へ。
イメージは習字の文字。
ゆらゆらと水中に溶けて消えるのだ。
眠りは静かに降りてきた。
謎はまだ解けないけれど、近付いてきている気がする。
(ほどくのは私、と……)
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