謎、には根拠がある
朝、制服のスカーフに手を伸ばしたところで、背中から釘を刺された。
「──今日は休みなさい」
斎藤のおばちゃんは包丁を置いて、振り向きもせずに言った。
声だけで、有無を言わせない。
「でも……」
「でも、じゃない。昨日あれだけの話を聞いて、今日も普通に教室座るの? あんたの身体はひとつ。守れるのは今だけだよ」
視線が合う。
負けた。
千穂は小さくうなずいて、スカーフを畳み直した。
「……はい」
「よろしい。顔洗っておいで。味噌汁が冷めるよ」
洗面所で冷たい水を頬にかける。
鏡に映る自分の目は、やっぱり少し明るい茶色で、寝不足のにじみがあった。
右足の小指の横、靴下の中のアザは痛くも痒くもない。
廊下に戻ると、玄関の呼び鈴が鳴った。
「朝っぱらから、ごめんね」
現れたのは──タカミオの叔父さんだった。
大きめの封筒とノートPCの入ったケース、それから水筒をぶらさげている。
(テレビの探検隊みたい……)
「お邪魔します。昨夜は長居してしまって。続き、少しだけ」
「まあまあ!いいところに。朝ごはん食べながら話しましょう」
卓袱台の上に焼き鮭のおにぎりと味噌汁、卵焼き。
叔父さんは手短に挨拶してから、封筒を開いた。紙の匂いが、湯気の中に混ざる。
「まず……昨日の結論は『決めつけない』こと。印は呪いと断言できない。青は、巳沢の文献では加護の色として出てくる。ただし、ここは学術的に仮説の域です」
「……はい」
「見せて、とは言いません。痛みや熱、変化は?」
「ないです。冷たい感じは、時々……?」
「冷たさ──水に触れたような?」
「そう……です」
叔父さんは頷き、メモに走り書きする。
「水神にまつわる伝承だと、『冷える・湿る・澄む』は好意的な兆しとして語られることが多い。あくまで民俗の話ね。昨日も言ったように、理屈と証拠の世界ではないから」
そこまで聞いたところで、おばちゃんが味噌汁を置いてくれた。
湯気が鼻に抜けると、少しだけ背中の力が抜けた。
(ああ……おばあちゃんの味噌汁みたいだ)
千穂は亡き祖母を思い出し、涙が滲んできた。
おばあちゃんが生きていれば。
「それともうひとつ。今日は出来るだけ、敷居から外に出ないで。見回りは私がする。高橋さんは奥で紙を広げる。千穂は家の中。いいね?」
「うん」
おばちゃんの言い切り方は、ありがたかった。自分で決めようとすると、どうしても普通に戻りたい気持ちが顔を出して、足を踏み出してしまいそうだから。
(誰とも連絡出来ないのはちょっと困る……)
「おばちゃん、あの……携帯、家に」
「取りに行かないよ。今日は線(えん)を増やさない」
ぴしゃり。
本当におばあちゃんみたいだ。
喉の奥に残った言い訳は、味噌汁で飲み込んだ。
午前中は、叔父さんが蔵から持ち帰った写しと、昨夜の家系図の確認。
千穂はお茶を淹れたり、付箋を貼ったり、読み仮名のわからない古い字を一緒に首をかしげたりした。
「ここ、『観音女(かんのんめ)』で合ってる?」
「合ってます。幼名。……面白いのはね、同じ話が別の家の文書では武家の姫になってること。立場が変われば物語は変わる」
「雪子は農村の子だったんでしょ?貴族じゃないのに幼名があるの?」
「そうだね。でも、絶対無かったわけでも無いよ」
叔父さんは楽しそうに言ってから、すぐに真顔に戻る。
「けれど、変わらない核がある。『水と龍と、人柱』。そして『四代ごとの女当主』。これが核。そこに今、『ルールの破れ』が加わっている。標的が回収されなかったこと、遠方での事故の符合」
「……父と弟のこと?」
声に出すと、胸の奥がざわざわした。
龍巳は、まだ布団よりも大人の腕が似合う年齢で、泣くことと眠ることしか知らないのに。
「因果と呼ぶには乱暴です。ただ、回路が焦げて別の導線を探すように、『何か』は近い縁を辿る傾向があるんだ。だから今日は、ここから出ないのが最適解」
おばちゃんが障子の桟を拭きながら、短く相槌を打った。
「昼になったら塩撒いとくよ。ドクダミも干してある」
「ありがとうございます。理屈で言えば迷信ですが、経験に裏打ちされた行為は軽んじられない。『やることをやる』のは大事です」
叔父さんは頬をかいてから、ふっと笑った。
「澪は学校。連絡は一旦、僕経由で。……といっても、今日は向こうも授業だろうけどね」
(携帯が無いのって、こんなに落ち着かないんだ……)
鞄の底に、癖で手を突っ込む。
何もない。布の感触だけ。
(会いたい、のかな)
言葉にすると、なんだかこそばゆい。
昼。
おばちゃんの煮物と麦茶。
叔父さんは紙の海に沈み、千穂は台所の手伝いをしてみたが……それでも手持ちぶさたの時間が出来る。
雨は上がりかけているのか、木戸の向こうが薄く明るい。
軒先に撒かれた塩が、白く線を引いていた。
玄関の敷居をまたがないように、外を覗く。
小道を、細い蛇が一本、すうっと渡っていった。見つけた瞬間、心臓が跳ねた。
けれども、特に何か起きたわけでもない。
(蛇は出ても平気……なの?)
廊下で立ち尽くしていると、おばちゃんが後ろから声をかけた。
「見送りは禁止だけど、窓から見るくらいは許すよ。……でも、窓も開けない」
「はい」
今は、大人の言うことに従ってる方が楽な気がする。
昨日までは、あんなに大人になりたかったというのに。
午後、叔父さんがふいにペンを置いた。
「少し、耳を貸して」
向かい合って座る。
卓袱台の木目が、ゆらゆらと川の水みたいに見えた。
「もし今夜、なにかが来たら──反応するのは、声じゃなくて足元……龍印だと思う。冷え、痺れ、もしくは逆に温み。どれが出るかはわからないけど、身体の言うことを信じて」
「……信じる?」
「そして、大きい音にびっくりして外に出ないこと。窓を開けない。呼ばれても返事をしない。人の声でも、だ」
「……はい」
「厳しいことを言うけど、これは用心。科学ではない。でも、用心はいつだって合理的だ」
言葉が、ゆっくり胸に沈む。
怖い……よりも、決めてくれる大人がいることに救われた。
「あと、これは言うべきか迷ったけど……」
叔父さんは少しだけ視線を逸らして、戻してきた。
「昨夜から、千穂さんの“夢”と澪の“夢”には、折り重なる気配がある。過去が縁を引くなら、現在で結び直すことも出来る。……僕は研究者だから、奇跡は語らない。でも、人が選ぶ方向が“縁”の形を変えることは、いつでも起こる」
「結び直す……縁」
「うん。雪子と高御尾の物語は、もう昔のものだ。いまは、伊藤千穂と高橋澪。大事なのは今を生きる君たちのほう」
思わず、右足に触れてしまう。
靴下越しに、少しだけ涼しい気がしないでもない。
──夏の井戸水みたいに。
「……連絡、取れないけど」
「ハハハ、昔は携帯なんて無かったけど、みんな大丈夫だったよ」
はぐらかされた気もするけれど、責める気にはなれない。
(でも携帯……無いと困る、ほんと)
夕方。
外の色が少しずつ薄まって、鳥の声が遠くなる。
おばちゃんは店の締め支度、叔父さんは紙をまとめはじめた。
「今夜は僕も近くに──隣の部屋に泊まるからね。何かあったら、声じゃなくて壁を叩いて。合図を決めよう。三回、間をあけて二回」
「さん、ま、に」
「そう。僕も同じ合図で返す。返ってこなかったら、外の声は無視」
「うん」
「ちゃんと食べて、早めに横になる。眠れなくても、目を閉じるだけで身体は休まるからね」
「はい」
叔父さんは外でおばちゃんと何か話してから、隣の部屋に入っていった。
窓から見える空は、洗いざらしの布みたいな色だった。
どこからか雨上がりの匂い。
(タカミオ、今どこにいるの、今日は来てくれないのかな)
返事はない。
携帯のない手のひらに、千穂の心がしみこむだけ。
夜。
灯りを落とすと、家のかたちが音になる。
柱が息をするようにみしっと鳴る。
古い冷蔵庫のブーンという低い唸り。
遠くで、犬が二回吠えて静かになった。
布団に横になって目を閉じたけれど、やっぱり眠れない。
自分の呼吸だけが行ったり来たりする。
右足の上に、なんとなく手を置いてみたけれど、なにかあるわけではない。
ひんやりしてるような気がするだけ。
……と、その冷たさが、ふっと薄れた。
水の面に指を入れて、ゆっくりと引き上げた時みたいに。
「……?」
(なにか来るの?ほんとに……?)
耳を澄ます。
家の外の砂利を、すこし湿った何かが擦る音。ずる、ずる、と遠くから近づいて、やがて止まる。
戸は鳴らないし、呼ぶ声もない。
ただ、気配だけがある感覚。
印は熱くないし、怖いのか怖くないのか自分の心もよくわからない。
布団の縁を握って、息を殺した。
「……」
三回、間をあけて、二回。壁を指で軽く叩いてみる。
約束の合図。返事は──
(……)
来ない。
返ってこないなら、外の音は無視。
そういう約束だった。
目を固く閉じると、暗闇の裏側に、薄い水色がゆれる。
池……?
風がないのに、波紋だけがひろがっていく。
だれかが、その向こうに立っている──気がする。
細長い影。
遠くて、懐かしい誰か。
名前を呼ぼうとして、やめた。
「話しかけるのも、ダメだよね」
喉の奥で、ひとりごとみたいに転がった言葉は、誰にも届かない。
今は──それでいい。
届かない方が、強い時もあるはず。
右足の違和感は薄れ、外の擦れる音も遠ざかっていく。
(大丈夫。大丈夫)
言い聞かせると、ふっと体の力が抜けた。
眠りは、思ったより近くにいたようだった。
明日のことは明日でいい。
会えない夜が、会いたい気持ちを育てるなら──それも、悪くない。
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