第16話 涙

「…は?冗談、やめてよ」


言いながら、本当はさっきから見ないふりをしていたことを思う。


…痩せた。


最後に会ったのは、1年前…文仁との結婚を報告しに、実家に帰った時、たまたま会ってしまった。


ちょうど帰るところで、ろくに言葉は交わさなかった。


ちゃんと紹介する必要もないと思ったし、当然のように父親をスルーする理由を、文仁には「仲が良くないから」とだけ伝えた。



もともと細身ではあったものの、明らかに痩せたと思いながら、口には出さなかったのに…


それがまさか…


「死ぬって…なにそれ。命に関わる病気だってこと?」


つい…言い方がきつくなる。

急に連絡してきて、初めてカットさせて…自分の店に連れてきて。

娘だなんて、人に紹介されたのも初めてだし、勝手に父親みたいな顔しちゃって…


「そうだ…悪性の病気ってやつ。気づいた時は手遅れだった」


間もなく、入院するという。


私が、自分の死を伝えても、冷静でクールに振る舞えると思ったのだろうか。

…だとしたら買いかぶりだ。


私は両親とは違って、普通の感情を持つ人間だから、実の父親がもうすぐ死ぬなんて知らせを、素直に自分の中に落とし込むなんてことは…できない。


狼狽えるほど、龍二の言葉は確信に満ちている。

疑いの余地を挟む隙など、どこにもないほど。


「だから、響子にはもう会えないと言ったんだ」


突然の別れに嘆き悲しむ母の姿が蘇った。


もし…龍二がもうすぐ死を迎えるなんて知ったら、絶望と悲しみの狭間で正気を失うか、先に命を絶ってしまうか。


そんな姿は容易に想像できる。



「凛…」


龍二の低い声に名前を呼ばれて、自分が泣いていることを知った。


「ごめんな…悪い父親だった」


死が見えて、自分のこれまでの行いを反省したのか…

そんなの、らしくないと思った。


龍二は、お父さん…と、呼ばせてくれなかった。

でも、それがデフォルトだ。

不思議でもなんでもない。


父性のかけらもない、父娘の愛なんていらない…冷たい男。

それでも、年を取った時は…龍二さんとしてでも、面倒を見たい…そんな本音が確かにあった。


自分でも驚く。…どれほど父としての龍二を求めていたのか。


大人になって…龍二を、許したかったのかもしれない。

でもこんな風に許すなんて、想定外だ。



「ごめんな…」


いつの間にか、その胸に抱きしめられていた。

龍二の温もりは、穏やかで…文仁に抱きしめられるのとは違う温度だと知る。


これが父…肉親…。

母を迎えに来た時、すれ違うと香る、同じ匂いがした。




「お前は、素直に生きていけよ」


別れ際、龍二に言われた。


「俺のように、響子のようにはなるな」


「…自分たちを反面教師にして、学べとか言うの?どんな親だよ…ほんっとに…」


…生きて会えるのは、これで最後かもしれない。

初めての父の温もりを、離したくないと駄々をこねる子供の自分を持て余す。


けれど…気づいていた。

そっと、龍二の様子を見守る優しい影に。


いつからだったんだろう。

龍二が母との関係性を変えたのは。


それでも、決定的な別れを切り出さなかったのは、切れない縁…娘という存在があったからだとしたら。


私と郁には、ちゃんと存在意義があったんだ。




入院する病院の名前は、聞く前に教えてくれた。見舞いに来い、と言ってくれた。


行くよ…と言って、優しい影にそっと会釈する。


その人は凛に、深く頭を下げてくれた。




すれ違う人からの視線を感じた。

それでも…涙は止まらない。


二度見され…泣き笑いの笑顔になる。


嬉しいのか悲しいのかわからない。

冷たい龍二の態度に苛立った時は、迷わず郁に連絡をして愚痴ったのに。


今回ばかりは、郁にも言えない。

もちろん、母に言うつもりもなかった。




「ふみ…ひと」


もし自分が誰かの前で泣けるとしたら。

それは文仁をおいて他にはいないと思う。

グラグラと揺れる心を、しっかり抱きしめてほしいと思った。


素直に生きていけ…と言った、龍二の低い声を思い出す。


素直になるって…どうしたらいいの。もう、別れたのに。




その時、ポケットの中の携帯が振動した。


「…文仁」


このタイミングで?

…龍二からの着信を受けた時もそう思った。



画面に表示された名前をなぞり、着信をつなげる。



「もしもし」


『凛…仕事終わってる?』


「うん。…ちょっと野暮用で、早く上がったんだ」


今いる場所を伝えたのは、会いたいと思う気持ちが言わせたのかもしれない。


『偶然だな。俺も今、クライアントとの打ち合わせが終わって、近くにいるんだ』


会えないか、と言われ、OKした。


近くの駅で待っていると言われ、少し時間に余裕を持たせて到着時間を伝えた。


涙の跡を少しでも消してから会いたい。

今聞いた龍二の話を、すぐに伝えるには生々しすぎる。


後で…と言って、凛は携帯を切った。

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