第33話 正しさの終点
校舎に一歩足を踏み入れた瞬間、中の空気がいつもと全然違うように感じた。
とても冷たい。冬の寒さとかそういうことではなく、もっと根本的な何かが存在しないような、まるで洞窟に迷い込んだような感じがする空気だった。
廊下を歩く俺の足音だけが、乾いた音を立てて響く。
教室へと向かうまでの間、不思議と誰にも会わない。学校なのに、朝なのに、いつもの騒がしい周囲の声が全くしなかった。
教室の扉の前に立ち、深呼吸をする。
それで落ち着くはずもなく、心臓の鼓動が、喉元までどんどんせり上がってくるような感覚になる。
足が勝手に震えた。けれど、それを止めようとする気力さえ湧かなかった。
それでも意を決して、ドアを引く。
思った通り、教室の中には誰もいない。
いや、違う。誰もいないわけではなかった。
窓際から離れた、教室の隅の机に、一人の男子が座っていた。
本を読んでいて、そのページをめくる音が、微かに聞こえる。
その男子の名前を口にする前に、自分の頭の中にあるはずの、曖昧な記憶を手繰ることに必死になっていた。
「お前……橋本か?」
ようやく絞り出した、橋本という名前。
相変わらず失礼な話だが、そういえばこんなやつもいたなというのが、正直なところだ。
ここしばらく色々なことがありすぎて、橋本の存在については、記憶の片隅で埃を被っていた。
「ああ、世良くんか。君は生きていたんだね。よかったじゃないか」
橋本は、ゆっくりと顔を上げて、言葉ほど喜んだ感じもなく、淡々と言った。
その目には、悲しみも驚きもなかった。ただ、どこまでも無関心といった様子だった。
「お前、随分と冷静なんだな。いまクラスがどれだけ大変なことになってるのか、わかってんのかよ」
ちょっとした苛立ちの感情が込み上げて、思わず声が荒くなる。
「わかってるよ。なんか、みんな死んじゃったらしいね。誰かに影響されたくらいで、簡単に自分の人生を終わらせるなんて、まったくもってくだらないと思うよ。僕にとって、今日ほど一人で生きてきてよかったって思えた日はないよ」
橋本は、鼻を鳴らして少し笑いながら、クラスメイトたちを小馬鹿にするようにそう言った。
その橋本の言葉の軽さや言い方に、どんどんと怒りが募る。
「おい!お前はなんてこと言うんだよ!いくらなんでも言い方ってものがあるだろうが!そんなの、冷たすぎるだろ!」
俺が怒鳴ると、橋本は一拍置いてから返した。
「じゃあさ、君はどうして、生きてここにいるの?」
その一言に、息が詰まった。
「……それは」
言葉が出てこなかった。
確かに、俺は、どうして生きているのか、どうしてここにいるのか、どうして他のクラスメイトたちのように死ななかったのか、聞かれたところで、今すぐ明確な説明をすることが出来ない。
そんな自分の中にある矛盾を、橋本はたった一言で容赦なく突きつけてきた。
考えてみれば、俺は誰かのために生き残ったわけではない。ただ、自分自身の命を断つほどの感情や関心を、他人に持っていなかっただけだった。
おそらく、クラス中では最も陽南の近くにいて、彼女が死ぬ瞬間にすら居合わせておきながら、俺の心は、それに決してなびくことはなかった。
それどころか、俺は陽南のことを「嫌いだ」と言って否定すらしていた。
それはクラスを守るためでも、治樹や優花の名誉を守るためでもなく、単純に自分の中にあった嫌悪感や不快感を、ただ陽南にぶつけただけだった。
その理由づけを、他人に求めていたんだ。
「クラスの人たちはさ、内野さんが、ああやって自分たちを導いてくれることを望んでたんじゃない?君は違ってたみたいだけど、たぶん君は、ずっと自分が正しいって思ってたんでしょ?気持ちはよくわかるし、そうだとも思うよ。そして、今ここにいるということは、君も僕と同じじゃないか」
橋本が追い討ちをかけるかのように、俺の今の内面をわかりやすく言葉にした。
「そうか……俺も、ただの冷たい人間だったんだな」
自嘲のように呟いた言葉に、橋本は静かに目を細めた。
俺は、皆のために動いたつもりだった。
でも、本当は違った。
「俺は、これまで、自分のためだけに動いてた」
言葉にした瞬間、涙が一気にあふれた。
嗚咽が勝手に漏れ出す。
近くにあった椅子に崩れ落ち、机に額を押しつけるようにして、泣いた。
どれだけ泣いても、その苦しさは和らぐことはなかった。
ただ、ひとつだけわかったのは、俺が正義だと信じていたものが、全部自分を騙すための嘘だったということ。
「俺は……間違ってた。ずっと間違ってた。じゃあ、どうすればよかったのか、今でもよくわからない」
そんな俺を、憐れむような表情で見つめたあと、橋本は静かに本を閉じた。
「君も、自分を許せるといいね」
それだけを言い残して、橋本は教室を出ていった。
静かに、足音も立てなかった。
しばらくして、俺はようやく顔を上げた。
涙の跡を頬に残したまま、ふらふらと立ち上がり、教室の窓際へと歩いた。
窓の外には、雲ひとつない澄んだ空が広がっていた。
冬の冷たい青が、校庭を静かに包んでいる。あまりにも静かで、あまりにも綺麗だった。
「……この教室にはもう、誰もいないんだな」
声に出すと、胸が痛んだ。
自分の声が、この空間でひどく浮いている気がした。
俺は、橋本の言う通り、正しいつもりだった。でも、全然そうじゃなかった。
俺は、始めから誰も、救うことなんて出来なかったんだ。
むしろ、自分さえ救われればいいとすら思っていたかもしれない。
そのことを、ようやく本当の意味で理解した気がした。
そして、自分の心がもう治らないくらいに、激しく折れてしまったことも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます