第24話 癒しを奪う

 いつからだったか、陽南の机に、手紙が入るようになった。

 『ヒナちゃんへ』と書かれた便箋が、折り畳まれたまま机の中に差し込まれている。封筒に入っているものもあれば、ルーズリーフにマスキングテープを貼っただけのものもある。

 その中には、こんな言葉が並んでいた。

『ヒナちゃん、いつもありがとう。あなたがいるから、毎日がんばれる』

『ヒナちゃんの笑顔を見ると、明日も大丈夫って思える』

『もしヒナに辛いことがあったら、私たちが支えるからね』

 それを見つけた陽南は、驚いたように目を丸くしてから、いつものように、そっと微笑みながらそれらを読んでいた。

 誰が始めたのかは、わからない。けれどそれはまた、ひとつの儀式として、教室に根付き始めていた。

 感謝の言葉を、陽南に捧げること。こっそりと、陽南への崇拝の気持ちを届けること。

 それはごく自然で、当然という流れだった。



 私も、それに倣って、便箋を開いた。

 『ありがとう』の言葉から、書き始めようとした。でも、そこから先を書こうとしたところで、ペン先が止まった。


 ——私は、陽南に“ありがとう”なんて思ったことが、あっただろうか。


 私の頭の中にあるのは、あの子に対する恨み言ばかりだった。憧れでも、尊敬でもない。ただ、『あの子さえいなければ、私の日常はもっと平穏だった』という憎しみの感情。

 私が本当に書きたいのは、感謝なんかじゃない。むしろ感謝とは真逆で、ずっと遠くにある言葉。

 その湧き上がる衝動を抑え、感謝の言葉を書いては消し、消してはまた書きかけ、そして最後には便箋ごと、破り捨てた。

 この言葉は、私のものじゃない。こんな言葉すら、偽物だ。

 私は、あの子に感謝なんて、もうしない。



 翔太郎が、笑っていた。

 隣から陽南が、翔太郎に何かをささやき、彼がそれにふっと自然な笑顔を返していた。

 何か特別なことがあったわけでもない、単なる授業中のやりとりのこと。

 それでも、私の中で、燃え上がるような感情が込み上げてくる。


 ——あの笑顔が、欲しい。陽南がいま、嬉しそうに触れているものを、奪い取りたい。


 陽南じゃなくて、私の方を見て。私はもうあの子の分身じゃないし、本当の私は、今ここにいる。どうして、それに気づいてくれないの。

 この教室の誰よりも、私は翔太郎のことを知っている。だから私は、彼を惑わすだけの都合のいい言葉で、彼を支配したりしない。

 ただ、傍にいたいだけ。静かに、穏やかに。


 ——クラスなんていらない。学校もいらない。家だって、もうどうでもいい。


 翔太郎と二人で、どこか遠くへ行ってしまいたい。誰にも邪魔されず、二人だけで生きていきたい。

 でもそのために、私には何が出来るのだろう。

 彼の心を得るためには、私が彼に“何か”を与えなければならない。彼の心を癒してあげなければならない。そうしないと、気づいてもらえない。

 私は、陽南には出来ないことで、翔太郎を満たすしかない。

 その考えが、私の中で、次第に祈りのようになっていった。



 『改めて、話したいことがある』

 数日後の夕方。そうメッセージを送ると、翔太郎は『わかった』とだけ返してきた。

 校舎の隅の、誰も使っていない空き教室。窓のカーテンは閉じられ、夕暮れのオレンジ色の光が、わずかに床に滲んでいた。

 私は窓際にあった椅子に腰かけて、髪と制服の乱れをそっと整えた。

 緊張で足が震える。胸の鼓動も、どんどん早くなっていく。それを深呼吸で押さえ込もうとしたけど、まったく意味がなかった。

 少し経つと、ドアが開き、翔太郎が入ってきた。


「来てくれて、ありがとう。今日は……高野優花として、あなたに会いたかったの」


 陽南の仮面じゃなくて、私のままで。そう言い添えたかったけど、そこまでは恥ずかしくて、口から出すことが出来なかった。

 翔太郎は教室の真ん中に立ち、黙ったまま、不安そうにこちらを見つめている。

「翔太郎、あなただけはわかってるよね?私たちのクラスは、もう普通じゃない。誰もが陽南にすがって、自分を見失ってる。でも、あなたと私だけは、まだ……まだ、自分を保ってる。そうでしょ?だから、ここから逃げようよ、二人で」

「……優花。どうしたんだよ、いきなり。そんな、逃げるって言ったって、どこへ逃げるっていうんだよ?」

 戸惑う翔太郎を無視して、私は続ける。

「どこだっていいよ。私なら、本当の意味で、翔太郎のことを癒してあげられる。陽南には出来ないことを、私なら」

 そこで、言葉が詰まった。それ以上は、もう言葉には出来なかった。

 私はそのまま、震える手で、自身のカーディガンのボタンを外していく。

「私が、あなたにあげられるのは、もうこれだけ。でも、今の私の全部を、あなたに預けたいの。……私を見て、翔太郎」

 全てのボタンが外れたワイシャツや、ホックの外れたスカートが、私の身体から静かに滑り落ちていく。

 肌に触れる空気が、ひどく冷たい気がした。でも、身体はどこか熱を帯びていた。

 翔太郎の視線が、揺れているのがわかる。


「……やめよう、優花。こんなのは違うって。陽南に、何か言われたのか?それとも、何かされたのか? だとしたら、俺があいつと話すから……だから」

「陽南なんて関係ない!」

 私は叫ぶように言った。

「見てよ、翔太郎。お願い……私を……陽南じゃなくて、私を見てよ!」

 そのまま彼に身体を押し付け、唇を奪った。


「私、ずっと、ずっと前から好きだったんだよ?……翔太郎のことが」

 引き返せない。もう、どこにも戻れない。


 唇が離れても、私の手は、何かを求めるように、翔太郎の胸元に残っていた。

 そのまま身体を重ねると、呼吸まで重なっていった。まるで翔太郎の体温が、私の奥に静かに沁み込んでくるようだった。

 キスを繰り返すたびに、私の頭の中の境界線が、少しずつ溶けていく。

 これが正しくなくても、今は、ずっとこうしていたい。

 私は、もう自分を抑えることが出来なかった。

 翔太郎も、段々と抵抗をすることを止め、黙ったまま、それに身を任せていた。


 気づけば、辺りにはお互いの衣服が、無造作に散らばっていた。

 私は目が覚めたかのように、翔太郎の顔を見た。

 彼は何も言わず、少し震えていた。

 そして翔太郎は、間を開けてから小さく呟いた。

「……こんな形で、想いを伝えてほしく、なかった。それでも、ずっと、優花の気持ちに気づいてあげられなかった俺が……一番、悪いよな」

 その言葉と、そう言う翔太郎の表情を見た瞬間、私は察してしまった。

 段々と、目の前が暗くなっていくような感覚に襲われる。


 ——私は、翔太郎の心を奪えなかった。

 本当の私として、彼に向き合ったはずだったのに。


 私は黙って制服を着直し、鞄を手に取る。

 視線を翔太郎から逸らしたまま、教室のドアへと歩く。

「……最低だ。私は、最低だ!こんなんじゃ、絶対に勝てない。私は……あの子には、勝てないよ」

 静かにドアを閉める。

 廊下はもう真っ暗で、遠くの照明の光さえ届かない。

 夜が、すべてを覆い隠そうとしていた。

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