三十八 もゆら

 




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 鏡の水面みなもは明け空を映す。うすらぐ藍にたなびく東雲しののめ、凛ときよらかな空気の中に、朝日の兆しが染み渡る。ふいにすずやかな風が吹き抜け、小さく波立つ池のほとりに。浄衣じょうえをまとい、太刀を携え、瓊音ぬなとは静かに立っていた。

 やしきの庭に横たわる池の、奥の底には障気しょうきがいる。ここが障気邸だという噂は、じつはあながちまちがいではない。障気はたしかに溜まっている。いまだあふれることがなく、底に沈んでいるだけなのだ。

 日に日にそばで舞っているため、落ち着いているというところもある。動きだすことは考えにくく鎮めよとも命じられないので、長いあいだそのままだった。ゆっくりと、徐々に、増えていた。

 そのことを話したとき、小さくほほえんでうなずいた実緒みおは、いまもすぐそばにいる。

 きょうで、実緒に会った夜からちょうど三月みつきが経つことになる。約した時に至ったので、こうして約したことを守った。障気のところへ連れて来た。手を引いてちゃんと連れて来たから、これで、もうじゅうぶんだろう。このあとどうするかについては、なにも約してはいないのだから。

 ずいぶん勝手な真似をする。わかっていても、ねがってしまう。見ていてくださいと言いつけると、実緒はせつなげに瞳をゆらした。さらさらと降る澄んだひかりが、その頬を伝い落ちていく。


 この玉垣たまがきしまを守護する、瓊音の大神おおかみ共鳴ともなりの神だ。ふれあって、鳴ることがすきだ。ふれあわなければ音はしない。ふれなければ始まらない。それは生きることでもあり、生かすことでもあるのだった。そして、ひどく難しいこと。たやすく遠ざかってしまう。手を伸ばすことも難しくなる。みずから遠ざけてしまう。

 瓊音は、いままでいちどたりとも、力を使いこなせたことがなかった。大神の力をおのれの身体で受けとめきれたことがなかった。その理由はわかっていた。ふれようとしていなかったから。わかっていても、わからなかった。どうすればよいか、わからなかった。瓊音は、太刀の柄をそっと握った。


 ────もゆら


 呼ばわり、すらり抜き放つ。見慣れたやいばが現れる。その白銀はくぎんが鍔のほうから、日を受けるように色づいていく。

 それは生血なまちの色だった。色は白刃しらはの内をたゆたい、切っ先へのぼり、こぼれ落ちる。

 まどかな、あかい小さなたまが、つぎからつぎに生み落とされる。すべて目に見えぬ緒でつながって、刃のまわりをくるくる渦巻く。実のなる枝を捧げ持つように、瓊音はそれを目の上へかざした。たまがゆらいで、ふれあい鳴った。轟く胸に空気をおくり、瓊音は舞を、ことばを鳴らす。


 けまくもかしこ

 瓊音ぬなと玲瓏もゆらの大御神おほみかみ

 よろづのさはりの八百会やほあひに

 とが禍事まがごとのあらじものをと

 もゆらもゆらにたま

 垣内かきうちみながらたひらけくやすらけく

 まもたまさきはたまへと

 かしこかしこみもまを


 ふれられなかったものたちが、せめておだやかに鎮まるように。ねがいながら、唱い舞う。幾度も、幾度も繰り返す。

 音に水面みなもがふるふるとして、あかい波紋が広がっていく。池の隅まで染み渡り、水はすきとおる血のなみだのよう、おおらかにゆらり、ゆらりゆらいで、やがては音を醸し始める。

 そっと、耳を傾ける。あざやかに澱み濁りきよらな、それは共鳴りの音だった。はかなく、澄み渡るささやかな音。睫毛のまたたく音くらい、なみだの流れる音くらい、となりのひとの心音くらい、近くて遠くてふれたくおもう。かすかに、たしかに、鳴り続けている。

 ともに、聞いているのがわかる。残らず拾おうとしているとわかる。それをおもうと、あたたかかった。ひどく重たく、あたたかいのだ。ここちよくて、くるしくて、ふかくかなしみが込み上げてくる。きっといつまでも、舞っていられる。ずっとどこまでも詞がとどく。

 そして、天からひかりが差し込む。音色は、消えゆく。しずまってゆく。

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