(四) 罪咎の傷
二十七 影の中
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ほんとうに、もうしわけないと言って、透也は瓊音に頭を下げた。
「実緒さんに、いやなものばかり見せた。
瓊音は首を横に振った。市は、たしかに治安がよい場所とは言えない。外れのほうでは怪しげなものが売られ、いかがわしい賭けごとがなされている。それでも、市のまんなかで騒ぎが起こるようなことはめったにない。
「わるい酔いかたをしていた者らがいたのだろう」
瓊音が言うと、透也はそうだけど、と口ごもった。
「行ってかまわないと言ったのはわたしだ。ふたりが無事に送りとどけてくれて、ほんとうにありがたかった」
「でも、おまえ」
「気を遣わせてすまない」
すると透也は口を閉ざした。眉を寄せしばし沈黙したあと、すっと息を吸って言った。
「実緒さん、ひとがめちゃくちゃに蹴られるのも、石ぶつけられるのも、たぶん、死んだのも見た」
瓊音は唇を噛んだ。あの日、瓊音が邸にもどるとすでに帰っていた実緒は、いつもどおりのようすだった。きょうまで変わっていないように見える。しかしいつもどおりと言っても、それがどんなものなのか、詳しく知っているわけではなかった。
「実緒さんが、いままでどんなとこにいたのか、わかんねぇけど。見た感じだけで、おれたち……おれとか穂とは、ちがうっていうのはわかる」
それなりの身分のひとに見えると、透也は言う。瓊音もそう考えていた。贄にされた実緒が着ていた衣は、上等の絹地だったのだ。それだけではなく佇まいからも、どこかの姫君のように思える。
「だから、ああいうの、あんまり慣れてないっていうか。すごく傷ついたんじゃないかって。そういうところ、あんまり考えてなかった。
ぬるい風が吹き込んで、下ろした
透也は、板敷を眺めていた。瓊音もおなじところを眺めた。よく磨かれた床板が、差し込む西日を吸い込むために色をなくして見えるところを。互いの膝のあいだだった。ふたりして影の中に座って、あいだを隔てるひかりの川を見るともなしに見ているのだった。
「透也」
瓊音が呼びかけると、透也はやっと顔を上げた。瓊音は座り直して言った。
「ほんとうのところはどうか、聞かせてほしい」
「え?」
「あのひとを見て、ほんとうにそう思ったか」
瓊音は透也をのぞきこんだ。いつも明るい目の中に、沈痛の色がゆれている。
「あのひとの、なにか────」
さりげなく、よくひとを気遣う透也は、たしかに身分のある家の生まれではない。かどわかされた、売られた買われたはあたりまえの、むごい目に遭わされてきたと聞いている。幼いとき、この邸に忍び込んだ透也を瓊音が出迎えたのがきっかけで、よく遊ぶようになった。やがて透也は瓊音の父とおなじ職に就いていた。いまは宿舎で暮らしている。都の治安を守るその仕事には、幼いころ瓊音もあこがれていた。
仕事柄か、経験のためか。透也は気楽そうな顔をしながら、たいていのことを見すかしてしまう。踏み込まれれば、逃げられなくなる。
「んー、おまえさぁ……」
透也はぐしゃりと頭を掻き回し、なぜかもどかしげに唇を噛む。
「あぁあ、だけど実緒さんにも、いろいろぺらぺら喋っちゃったしな……」
また下を向いてしまい、ぶつぶつとなにか言っている。そうかと思えば頭を跳ね上げ、ひたりと、目を見据えてくる。おのずと背筋が伸びるのを感じた。
「あのね。おれが勝手に思っただけだから、ぜんぶ本気にしてちゃだめだぞ」
「ああ、わかってる」
「うん。おれが、なんとなく思ったのは。ああいう場面がはじめてだから、傷ついたとかじゃなくて。ああいう場面を見ていろいろ、思い出してたんじゃないかって」
「思い出して────」
「そう。おなじようにされてたこと、あったのかもな。なんというか、おひいさまだろうに」
瓊音は言葉を失った。けれども、そんなことかもしれないと、どこかで思っているところもあった。すこしましにはなってきたが実緒はかなり痩せているし、衣できれいに隠してあるところに、痕などあってもおかしくはない。
「あと、市で知り合いに会ったかも」
「──え」
「騒ぎから離れたあとにな。すれちがったひとがいたんだけど。そのひとが実緒さんのことけっこう、見てて。実緒さんも気づいて、あっ、ていう顔してたから……」
瓊音はゆっくりと息を吸い、うなずいた。
「そうか」
「そう。若い……まあおれらよりは上かな。そんぐらいの男だった。まずいやつではなさそうだったし、ほんとに知り合いかどうかはわからん。けど、なんか心配だ。実緒さんのようすが、ちょっと」
「そう、か」
「うん。だからさ瓊音、実緒さんのことちゃんと見とけよ」
透也は、いつもより低い声で言った。瓊音は西日の帯を見ていた。
実緒と約した
日に日にとくに言葉もかわさず、ただふれあっているそのときが、やすらぎになってしまっていた。もっと、そばまで近づいて、そのまま眠ってしまいたくなる。ほそやかな肩に額を預けて、凛と伸びた背に腕を回して。
それでいて、なぜなのか、腹の底から叫びたくもなる。叫んで駆けずり回りたくなる。なにを吐き出したいのか知れない。ただ衝動ばかりがくすぶり、封じ込めるのに難儀する。どうしようもなく胸がざわめく。
ふれあっているときばかりではなかった。すがたをちらりと見ただけで、御簾ごしの声を聞いただけで、湯気に包み込まれるだけで。実緒が、近くにいないときでも、ざわざわとゆれうごいてしまう。
向かい合えばそのたびに、細く小さいと思い知る。その目はうるんで濡羽に似ている。とりどりのひかりを宿し、刻々移ろうように思える。いっときも逃したくないと、ねがってしまいそうになる。
その瞳を彩っている、よろこびも、かなしみもくるしみも。なにひとつ、この手ではふれられないのに。それはあのひとだけのものだ。あのぬくもりも、やわらかさも、たしかに感じられるのだから、それ以上を求めては欲心がすぎるだろう。
けれども、見つめて、ふれたかった。実緒もおなじなのではないかと、錯覚しそうになるときもあった。それは、大きなまちがいなのだと、ほんとうはよく知っているのに。
実緒は、ずっと見つめているのだ。拭いきれない思い出と、近づいてくる約束のとき。すきとおる蝶を恋い追うように、そのときをじっと待っているのだ。
手放すつもりはない、などと。留め置くことなどできるはずがない。引き留めることが、どうしてできるか。勝手に攫った分際で。
「おーい、瓊音さん起きてますか? いちおう目の前にひといるんですけど」
透也が、からかう調子で言った。でもなにか案じている気がして、瓊音は頬をゆるめてみせる。透也の片頬が引きつった。
「おぇ、へんな顔気色わる。そういう顔しなくていいから、実緒さんのことちゃんと見て、話聞いて、聞いてもらえよ。なんか無理なことがあったら、
とか言ってるけどおれがわるかったんだと、透也はまた頭を下げた。いまだに謝っているらしい。瓊音は、透也に頭を下げた。わるかったと礼を言った。
透也の言うようなことが、いますぐにできるひとだったならよかった。
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