二十二 薄紅の





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 奥底がときおり荒れたとしても、おもての凪いだ日々が過ぎ去る。そして三月みつきの半分が済んだ。そんなある夕刻に、すいやしきにやってきた。

 穂は、ほおがきれいに咲いてるねと言った。実緒みおは、ほんとうにとうなずいた。いま、朴は花も咲かせているのだ。その大きく白い花弁を見るたび、きゅっと絞られるここちがしていた。なみだを受けとめるようなかたちで、かさなりあっているからだろうか。ずっと遠くへ運んでくれる、羽に似ているからだろうか。

「ねえ実緒ちゃん、今度町でも行かない? わたし用事あるんだよね」

 母屋おもやでお喋りしていると、突然かろやかに誘われた。あまりに屈託がなかったから、実緒はすぐにこたえていた。

「それは、とてもすてきです」

「でしょ?」

 美護みもりへ来てから、この邸を出たことはない。とても出たいとかではないけれど、都がどうなっているのかは気になる。穂と行けるのならとてもすてきだ。でも、いちおう、いちおうは、ここのあるじの妻という立場だ。ふらっと出かけてよいものか、わからない。

「あ、もし、瓊音ぬなとさまに、お許しいただけたらよいのかな……」

「あっ瓊音。実緒ちゃん借りていい?」

 穂が急に、実緒のうしろに向かって問うた。はっとして振り返ると、瓊音がきざはしを上がってきたところだった。ちょうどいまもどってきたのだ。夜半ではない。すこし早い。近頃は、こういう日もときどきある。

「あ……」

 おかえりなさいませ、瓊音さま。ご無事のおもどりなによりです。妻であればそういったことを言い、にっこりほほえんで迎えるのだろうか。いつも出迎えてはいるけれど、いちども言ったことがない。いま、言ってみたとしたら。

「いいよね。うん、お許し出たよ」

「えっ」

 急な展開に実緒がまごついていると、瓊音は平坦に言った。

「まだなにも言っていない」

「そうだね。よさそうな顔かなあと思ったので、つい調子に乗りましたね」

 穂はごめんと謝りながら、楽しそうに笑っている。実緒はつい瓊音を見上げた。目と目が合って、その瞬間に、長い睫毛が伏せられる。

「あなたがよいなら、かまいません」

 瓊音はそれだけ言い残し、実緒の横を通り過ぎる。実緒は、ぽかんとそれを見送る。握られた美々しい太刀のつかには、白い手巾が巻かれている。

 それは、知っていたけれど。あらためて目にしてしまったからか、明るいところで見てしまったからか。太刀の柄だけじゃなく、あのひとのすがたを。なんだかよくわからないけれど、血がどくどくと駆け巡っている。ややあって、返事をしていなかったと気づいたとき、穂が大声を出した。

「なにあれ! なんなの?」

 瓊音が行ったほうに向かって、呼びかけるように叫んでいる。

「いくらわたしが頼れるからって、透也とうやに荷物持ってもらうからって、もっと心配とかしないの、してるくせに! それじゃぜんぜんわかんないよ!」

 くるっと実緒に向き直り、のぞきこんでくる。

「ね、どうかな。行ってみたい?」

「行ってみたい────」

 するっとこたえが出てしまった。穂はきらりと笑顔になった。

「じゃあ、行ってみるか!」

「あっ、でも……」

 出かけると、家のことができない。ようやくすこし役立てているやもと思うのに。それに、瓊音はいつもどこかで、ひとりつとめを果たしているのに。

「実緒さま」

 ふと、やわらかい声がかかった。水の器がのった折敷おしきを持って、比佐ひさが入ってきたところだった。比佐は、瓊音さまお帰りになりましたねとほほえみ、器を穂と実緒の前に置きながら言った。

「もしかして家のことをご案じになっているのでしたら、お気になさらないでくださいな。わたくし、無理などはいたしませんから。実緒さまはこちらへいらしたばかりですし、町の見物も楽しいですよ」

「そうだよ。ひとは多いけどね、はなやかでおもしろいの。息抜きもだいじだし」

 ふたりの気遣いが、胸に染みてくる。ぬくもりに締めつけられながら、実緒はうなずいた。

「あの……、都は、来たことがなかったので。見物したいなと、前から、思っていました」

「ほんと? じゃあ一緒に行こう、すごいうれしいよ!」

「あ……、あ、わたしも、です」

 実緒がなんとか口にすると、穂はへへっと照れくさそうな笑いかたをした。実緒もつられて笑ってしまった。

 都である美護は、あこがれの場所だった。故郷の照羽国てるはのくには都にも近い大国で、立派な町も持っている。それでもやはり美護というのは、いちどは行ってみたいところなのだ。美護から派遣されてくる国守たちは、たいへんみやびやかに見えていた。

「よし、じゃあおめかししないといけないね! ねえ比佐さん」

 穂が元気よく言うと、比佐がまあ、と口もとを覆った。

「ほんとうですね。それはしなければなりません。香をたきしめておきたいですし、まずはお召しものを選びましょうね」

「わたしも手伝う!」

「穂さんも、おすきな色柄があればお召しになるとよろしいですよ」

「えっ?」

「おかたさまの──瓊音さまの母君のお召しものを、実緒さまがいらしてから、たくさん出してあるのですよ」

「えっ、だめ! 実緒ちゃんは着るといいけどわたしは他人の祈祷師だもん、そんなだいじなの着ちゃまずいよ!」

「そのようなことございませんよ。おかたさまはなにもお気になさらないといいますか、かえっておよろこびになるような気がいたしますし。着るものは着てやらないと、つらがって傷んでしまいます」

「えぇ……そう……そうかなぁ……? ねえ実緒ちゃんどうする?」

 穂の手が肩に置かれる。実緒は身に着けた薄紅の小袖の、袂を指先でそっと撫でた。これも瓊音の母親のものだ。借りているものは、ぜんぶそう。

「わたしは、これでじゅうぶんです。これがいいと、思います」

「そうだね、あんまりおめかししたら、あぶないかもしれないもんね!」

 穂は元気よく言ったけれど、比佐と顔を見合わせて、なにか案じるようすを見せた。実緒にはどうすることもできない。

 小袖があればじゅうぶんなので、単衣ひとえうちきは借りていなかった。瓊音が新しいものを仕立てようとしていると比佐から聞いて知ったときには、すっかり慌てて遠慮をした。でも、母君のものを借り続けるほうが、いけないことなのかもしれない。はじめからずっと、すきないろを選んでいるし。どうするのがよいのか、わからない。どうしたってだめな気がする。

 くれないをやわらげた色の小袖は、なめらかでやさしい手ざわりだった。ずっと撫でていたことに気がつき、手を膝の上に組み合わせる。

 どんな、母君だったのだろう。父君は、どうだろう。もういらっしゃらないことしか、わからない。瓊音さまはここで育ったのだから、きっと町へ出かけたことはあるはず。これまで、どんな気持ちを抱えて、過ごしてこられたのだろうか。

 毎日ふれているけれど、あのひとのことを、なにも知らない。

 知らない、なんてあたりまえだ。もうすこしでおしまいなのだし、知ることができたらなんて、そんなことはおこがましい。

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