二十二 薄紅の
**** ****
奥底がときおり荒れたとしても、
穂は、
「ねえ実緒ちゃん、今度町でも行かない? わたし用事あるんだよね」
「それは、とてもすてきです」
「でしょ?」
「あ、もし、
「あっ瓊音。実緒ちゃん借りていい?」
穂が急に、実緒のうしろに向かって問うた。はっとして振り返ると、瓊音が
「あ……」
おかえりなさいませ、瓊音さま。ご無事のおもどりなによりです。妻であればそういったことを言い、にっこりほほえんで迎えるのだろうか。いつも出迎えてはいるけれど、いちども言ったことがない。いま、言ってみたとしたら。
「いいよね。うん、お許し出たよ」
「えっ」
急な展開に実緒がまごついていると、瓊音は平坦に言った。
「まだなにも言っていない」
「そうだね。よさそうな顔かなあと思ったので、つい調子に乗りましたね」
穂はごめんと謝りながら、楽しそうに笑っている。実緒はつい瓊音を見上げた。目と目が合って、その瞬間に、長い睫毛が伏せられる。
「あなたがよいなら、かまいません」
瓊音はそれだけ言い残し、実緒の横を通り過ぎる。実緒は、ぽかんとそれを見送る。握られた美々しい太刀の
それは、知っていたけれど。あらためて目にしてしまったからか、明るいところで見てしまったからか。太刀の柄だけじゃなく、あのひとのすがたを。なんだかよくわからないけれど、血がどくどくと駆け巡っている。ややあって、返事をしていなかったと気づいたとき、穂が大声を出した。
「なにあれ! なんなの?」
瓊音が行ったほうに向かって、呼びかけるように叫んでいる。
「いくらわたしが頼れるからって、
くるっと実緒に向き直り、のぞきこんでくる。
「ね、どうかな。行ってみたい?」
「行ってみたい────」
するっとこたえが出てしまった。穂はきらりと笑顔になった。
「じゃあ、行ってみるか!」
「あっ、でも……」
出かけると、家のことができない。ようやくすこし役立てているやもと思うのに。それに、瓊音はいつもどこかで、ひとりつとめを果たしているのに。
「実緒さま」
ふと、やわらかい声がかかった。水の器がのった
「もしかして家のことをご案じになっているのでしたら、お気になさらないでくださいな。わたくし、無理などはいたしませんから。実緒さまはこちらへいらしたばかりですし、町の見物も楽しいですよ」
「そうだよ。ひとは多いけどね、はなやかでおもしろいの。息抜きもだいじだし」
ふたりの気遣いが、胸に染みてくる。ぬくもりに締めつけられながら、実緒はうなずいた。
「あの……、都は、来たことがなかったので。見物したいなと、前から、思っていました」
「ほんと? じゃあ一緒に行こう、すごいうれしいよ!」
「あ……、あ、わたしも、です」
実緒がなんとか口にすると、穂はへへっと照れくさそうな笑いかたをした。実緒もつられて笑ってしまった。
都である美護は、あこがれの場所だった。故郷の
「よし、じゃあおめかししないといけないね! ねえ比佐さん」
穂が元気よく言うと、比佐がまあ、と口もとを覆った。
「ほんとうですね。それはしなければなりません。香をたきしめておきたいですし、まずはお召しものを選びましょうね」
「わたしも手伝う!」
「穂さんも、おすきな色柄があればお召しになるとよろしいですよ」
「えっ?」
「おかたさまの──瓊音さまの母君のお召しものを、実緒さまがいらしてから、たくさん出してあるのですよ」
「えっ、だめ! 実緒ちゃんは着るといいけどわたしは他人の祈祷師だもん、そんなだいじなの着ちゃまずいよ!」
「そのようなことございませんよ。おかたさまはなにもお気になさらないといいますか、かえっておよろこびになるような気がいたしますし。着るものは着てやらないと、つらがって傷んでしまいます」
「えぇ……そう……そうかなぁ……? ねえ実緒ちゃんどうする?」
穂の手が肩に置かれる。実緒は身に着けた薄紅の小袖の、袂を指先でそっと撫でた。これも瓊音の母親のものだ。借りているものは、ぜんぶそう。
「わたしは、これでじゅうぶんです。これがいいと、思います」
「そうだね、あんまりおめかししたら、あぶないかもしれないもんね!」
穂は元気よく言ったけれど、比佐と顔を見合わせて、なにか案じるようすを見せた。実緒にはどうすることもできない。
小袖があればじゅうぶんなので、
どんな、母君だったのだろう。父君は、どうだろう。もういらっしゃらないことしか、わからない。瓊音さまはここで育ったのだから、きっと町へ出かけたことはあるはず。これまで、どんな気持ちを抱えて、過ごしてこられたのだろうか。
毎日ふれているけれど、あのひとのことを、なにも知らない。
知らない、なんてあたりまえだ。もうすこしでおしまいなのだし、知ることができたらなんて、そんなことはおこがましい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます