(三) 坩堝の贄

二十  舌の先




 

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 舞をぬすみ見てしまった夜から、指先だけではなくなった。御簾みすには隔てられなくなった。じきに三月みつきの半分がくる。

 実緒みおは夜ごと、瓊音ぬなとがもどるのを待った。くりや比佐ひさと片づけをしたあと、部屋で髪をとかしたり草子そうしをひらいたりしながら、ひっそりと耳を澄ませているのだ。

 比佐がずっと厨にいるので、そこで待ってもいいのだけれど。比佐の前でふれあっておくのは、なんとなく恥ずかしいと思うので。北対きたのたいで瓊音を待って、物音がするとすぐに出て行く。たいてい渡殿わたどのの真中で行き合う。

 向き合うと、どちらからともなくそっと両手を握り合う。手よりほかにはさわらない。目を合わせることもすくなく、とくに言葉をかわすこともない。たんに手と手をふれあわせるだけ。はたから見ると、へんてこだろう。でも、実緒にはそのひとときが、宝玉のかけらなのだった。なにかを、たしかめあうここちがしていた。そしてどちらからともなく離れて、瓊音は居所へ行ってしまう。

 きょうも渡殿まで出てきた実緒は、黙って瓊音と向き合っていた。

 真白の広袖がゆらめいている。軒から下がる灯篭とうろうの明かりに、ほんのり染まってゆれている。実緒は袖ばかり眺めていた。さやさやと草を鳴らす夜風を、ふわりとはらんで近づいてくる。

 ふれれば、消えるみたいにそっと、瓊音は実緒をすくいあげる。すきとおりそうなその指先は、きょうも静かに冷えきっている。ときおり、わずかに力がこもる。気のせいなのかもしれないと思う。そのたびにすこしくるしい気がして、息がしづらくなってしまう。

 なにも言葉が出ないかわりに、実緒はその手を包もうとした。指の長さが足りないけれど。もし足りていて包み込めても、そんなことはなににもならない。それなのに、包んでしまおうとした。

 瓊音の手に、力がないから。いままでとなにかちがっているから、きゅっと力をこめてしまった。すると、くらげみたいになった。瓊音の手はくにゃりとして、実緒の手から滑り落ちていった。

 胸の奥が、鈍く疼いた。なにかを考えるよりも先に、身体が動いてしまっていた。つっとあいだの距離を縮めて、もういちど手を取ろうとする。そのとき、肩になにかがとまった。

 額を預けられたのだった。ほんとうに軽く、ふれるくらいに。草と土の香りが濃くて、ひやりとつめたい気配が近くて、灯篭からこぼれるひかりが真白の背中を上滑りして。すこし、ふるえた息づかいは痛みをこらえるときに似ていた。

 ひとり鼓動が速まっていき、さとられるのがおそろしかった。おそろしいのに熱くなるから、いま生きているらしいとわかった。生きていられるのだと思って、どうして生きているのかと思った。

 両方の腕はさまようままに背中がひどくさびしく感じて、気づけば、なまえを呼んでいた。ぬなとさま、と口からこぼれ。

 まろく、ふしぎな舌ざわりがした。花や果実をはきだしたみたい。ひどくかなしいあまさがあった。

 舌の先に残った余韻に実緒が茫然としていると、瓊音は実緒の肩から離れ、もうしわけありませんとつぶやいた。背中を向けて歩いて行く。

 実緒はその場に突っ立ったまま、動くことができなかった。静かな足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなってしまった。気づくと、胸もとを押さえていた。せわしく脈打っていて、熱い。けれど首筋がひんやりとする。風に撫でられるせいではなくて、瓊音の気配が残っているから。

 実緒はそろりと手を動かして、余韻の残る首筋にふれた。ゆっくりと肩先までたどって、ぎゅっとこぶしを握りしめる。手を取り合うだけでなかったのは、はじめてのことだった。

 きょうは、なにかあったのだろうか。いつもなにかがあるけれど、きょうはとくに堪えたのだろうか。幾度も耐えたことだからといって、きょうも耐えられるとは限らない。

 実緒はふかく息をして、落ち着いてからきびすを返した。板敷を軽く鳴らして歩き、部屋の前で立ち止まる。

 実緒は部屋の中に入らず、厨のほうへ足を向けた。比佐はきっとまだ起きている。もしかしたら眠っていて、起こしてしまうかもしれないけれど、ひとつ思い立ってしまった。落ち着いたはずの心臓がふたたび騒ぎ始めている。実緒は衿もとをきゅっと握って、小走りに厨へ向かった。





 比佐はまだ起きており、快く迎え入れてくれた。ひどく緊張していた実緒はそれだけでなみだがにじんでしまった。瓊音に、なにか差し入れようと思って来たのだ。

 瓊音は寝食さえ必要ない。ここでの暮らしが流れていくほど、ほんとうに寝ないし食べないのだと、身に染みてわかってくる。きょうのように、もどるのが夜更けのときもあるし、ここへ来てからいままでいちども、寝たり食べたりしているのを見たことがない。なにかを差し入れたことだってない。でも、きょうは。

「きょうは、さきほどお会いしましたら、なんだかとてもお疲れのように感じたのです。でもなにか召し上がるのは、おつらいとお聞きしましたので、でも……」

 板の間に敷いた円座わろうだに座り、実緒は向かいの比佐に話した。あいだに挟んだ囲炉裏には炎をまたいで五徳が据えられ、その上に置いた鍋の中では水がふるふるとゆれていた。

「飲みものならと、考えまして、お水はお飲みになっているので……。あたたかいものでも、お飲みになると、すこし、ほっとできたりしないだろうかと……。あたたまることは、ないのでしょうしご迷惑だとも思うのですが……」

 あちらこちらにゆらぎながらも、炎は水をあたためていく。おもてにふつふつとあぶくが浮かび、ほの白く湯気がたなびいている。

「急に思い立ってしまって、なにかお聞きしたわけでもないのに……」

 いてもたってもいられなくなり、ここへ押しかけてきてしまった。きちんとした説明をするのも、ずいぶん遅くなってしまった。言葉にするとなさけなくなり、実緒は比佐に頭を下げた。

「比佐さんにお手間を取らせて、もうしわけありません……」

 これは余計なことでしかない。差し出がましく迷惑が過ぎる。とても勝手な都合なのだ。あのひとを、あのままにするのはいやだ。あれを最後に眠れはしない。もういちど、そばへ行けたら。白湯を差し入れようというのは、きっとそのための口実だ。

「実緒さま」

 比佐の、おだやかな声に呼ばれた。実緒がはっと顔を上げると、比佐は囲炉裏を回り込み、わざわざ実緒のそばまで来てから。

「実緒さま。ありがとうございます」

 どこまでも、あたたかい声音だった。慈しみ包む笑みだった。

「わたくしも、ほんとうにうれしいのです。実緒さまが瓊音さまを思って、気遣ってくださって、とてもとてもうれしいのですよ」

 くらりと、目の前がうるんでゆれる。

「瓊音さまね、実緒さまがいらすまでは、ずっとお帰りにならないこともあったのですよ。ひと月とかふた月とか、ぜんぜん帰ってこないのです、帰ってもとくに、なにもおっしゃいませんし、おたずねしてもあまりこたえてくださいませんし、じつはそうだったのですよ」

 まったくしようのない若さまですと、比佐はため息と一緒に言った。そして、でもね、とふんわりほほえむ。

「実緒さまが来てくださってからは、遅くともちゃんとお帰りになります。実緒さまとお会いするたびに、おすがたをお見かけするたびに、ほっとなさっているのでしょうね」

「え、いいえ……」

「そのようなそぶりは、あまりお見せにならないのでしょう? でもわたくしはね、きっとそうだと思いますよ。実緒さまが来てくださって、ほんとうによかった。わたくしだって楽しいのですよ、こうしてお話ができますし、一緒にいろいろとこしらえられますし、日々に色のついたここちですよ」 

 灯火ともしびにも似たその声に、実緒はこたえられなかった。そんなことは、ないと思った。

 先日、比佐は、実緒の体調もよくなったのでここへ来た祝いをすると言ってくれた。けれど、瓊音にそのつもりはなさそうだし、瓊音が休めるわけでもないので断ってしまっていた。

 祝うことはないと思うのだ。手間がかかるし、三月みつきだけだし。瓊音は、比佐にそう言っていないのかもしれない。障気しょうきから助けだした者を、妻にするとは話しているようだけれど。比佐の言葉の端々から、それはなんとなくわかる。

 居座っているとは思いながらも、出て行く決心はつかなかった。約した三月にすがっていた。だから、こうして白湯を持って行こうとするのも、もしかすると。瓊音を思ってのことではなく、瓊音に会う口実でもなく、途中で切り捨てられないため。もしかすると、そうなのかもしれない。そして、切り捨てられたくないわけは。きっと、ひどくあさましい。

「あ、実緒さま。お湯が沸いておりますね、火からおろして、すこし冷ましましょう」

 比佐の言葉で、われに返った。

「あ、はいっ、そうします!」

 比佐はあたたかな笑みをくれる。包み込まれるここちがする。冷えきって疲れたあのひとに、この手でおなじことができれば。

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