十   春の日





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 うららかにほほえむ日差しが、木の葉を透かしてあたりを満たす。やわらかそうな緑の新芽がひかりを吸って背伸びをすると、やさしい風が頭を撫でて、さやらさやらと木漏れ日が舞う。きららきららと、露が散る。

 いま夢を見ているのだと、実緒みおはよくわかっていた。だって香於かおがいるからだ。実緒の、いまより小さな手を取り、ほがらかに笑っているからだ。うるんだあたたかい日差しが、その笑みをにじませた。

 もうこんな春の日は来ない。実緒の妹はもういない。いなくなって、すべて変わった。すべて実緒のせいだった。それなのに、どうしてこの子は。香於は笑っているのだろう。

 夢だからだよ、と香於は言った。凛として、いとけない声だ。香於は実緒の手を握りしめ、笑みをふかめて繰り返した。これは、あねさまの夢だから。あなたの、夢だからだよ、だから、これはね。

 あなたの勝手なのぞみなんだよ。笑っているわけないでしょう。わたしは、いちどもゆるしていないよ。これからも、ゆるさないよ、けっして。

 けっして、おまえをゆるさない。だって、おまえはわたしをころした。

「香於、────」

 伸ばした手が宙を引っ掻いて、実緒は目を覚ましていた。

 ふすまからはみ出た腕に、小袖がべたりと張りついている。うまく息ができていない。喉からいやな音がする。ああ、香於に、香於に会えた。底冷えのする笑みで言ってくれた。ゆるさないと、言ってくれた。

「ありがとう、ね────」

「いいえ、めっそうもないことです」

 突然、横からこたえが返り、実緒はぎょっとして固まった。

「お目覚めになりましたか、実緒さま」

 そっと包み込むような声に、すうっと力が抜けてしまう。枕もとに顔を向けると、小柄な老婦が座っていた。茅色の小袖を着て腰にはしびらをつけており、実緒をのぞきこむその目には、いたわりの色がにじんでいる。

「おそばに、つかせていただいておりました。こちらのおやしきにお仕えしております、比佐ひさと申す者でございます」

 ゆったりとそう言って、なめらかな所作で頭を下げた。実緒ははっとして、がばりと身を起こした。

「お世話をおかけしておりま……」

 言い終わらないうちに、ぐにゃりと周囲の景色がゆがむ。気がつくと、比佐に横から身を寄せられ、しっかり支えられていた。

「いきなり起き上がってはいけませんよ。まだお熱が下がりきっていませんし、ちゃんとお休みにならないと」

 比佐はおだやかに言い聞かせ、実緒が横になるのを手伝ってくれる。やさしく衿もとを整えられて、なぜか叫びだしたい気持ちに駆られた。奥歯を噛みしめてこらえ、寝たまま比佐の顔を見上げる。

「あの、たいへんお世話をおかけしていて、もうしわけありません……」

 まだ本調子ではないようだけれど、ずいぶん楽になっている。比佐が水と薬を飲ませて、ずっと世話を焼いてくれたことは、ぼんやりながらもわかっていた。

「あら、実緒さま」

 比佐は口もとへ手をやって、ほほえんだ。その呼びかたはやめてほしいと言おうとしたけれど、比佐のほうが早かった。

「なにを申すのかと思われるでしょうけども、わたくしちょっぴりうれしいのですよ」

 比佐はふふっとかろやかに笑う。

「わたくし、もうずいぶん長くこちらにお仕えしているのですが、近頃すこしさびしくてですね。瓊音ぬなとさまもおとなになられましたから、とくにすることがなくなったのです。ひさしぶりにお世話をさせていただけて、うれしく思ってしまうのですよ」

 かたわらにあった水差しを取って椀に水を注ぎつつ、比佐は歌みたいに言った。実緒は口を開けて、閉じた。なにも言葉が出てこない。

「お水を飲みましょうか、実緒さま。今度はゆっくり起き上がってくださいね」

 比佐は実緒のほうを向いて、ちょっぴりいたずらっぽい顔をする。

「実緒さまはすこし華奢すぎていらすので、しっかりお支えできますからね、ご案じになってはいけませんよ」

「いえ、あの……」

「はい、どうぞ」

 背中に手を添えられて、実緒は苦もなく起き上がった。差し出された椀を受け取り、素直に口をつけていた。ひんやりとつめたい水は、さらさらと喉を通る。あっという間に飲んでしまうと、比佐がおかわりを注いでくれる。実緒はそれも飲み干して、生きているなと、急に思った。そうだ。終わりにならなかった。三月みつき先延ばしになったのだ。実緒は、そっと御簾みすの向こうを見やった。

「瓊音さまは、おつとめにお出かけですよ」

 実緒はどきりとして、比佐を見た。比佐はひとつうなずいて言った。

「お帰りになったら、実緒さまがすこしよくなられているので、きっと安心なさいますよ。ずいぶんご案じになっていらっしゃいましたから」

「え……」

「いかがなされましたか?」

神言かむごとは、ずっといつでも、あるのですか……?」

 問いがこぼれ落ちていた。比佐はいちど目をまたたかせてから、やわらかくほほえんでこたえてくれる。

「ええ、いつになるかわからないのです。お呼びがあれば、いつでもお出かけになるのですよ。お呼びがなくともお出かけになるので、あまりお邸にはいらっしゃらないのです」

「そう、なのですね……」

 実緒はかくりとうなだれた。いつ動きだすかわからない障気しょうきを、鎮めているというのだから忙しいのも当然だろう。思い至るのが遅かっただけだ。きのう帰ってきたのは夜半だったし、そのあと病者など出たから、あまり眠れていないだろうに。そう思ったとき、はっとした。かわりに行ってくれるひとも、きっといないのだ。神言を賜って障気を鎮めるようなひとが、たくさんいるとは思えない。

「もしかしておひとりとか、なのですか、どこまでおいでになるのですか……?」

 つい早口になって問うと、比佐はゆったりとうなずいた。

「そうですね、すまるさまがおられますけど、おひとりではありますね。しまじゅうどこでもおいでになります。選ばれてしまわれましたから……」

「選ばれた……?」

「はい。障気を鎮めるおつとめをするひとは、あるとき突然に、御言みことを賜るようになるそうなのです」

「そんなの、では……、あのかたは、いつ……」

「ええ、八年前の、お年が十二のときでしたね。それまでも、このお邸のだいじな若さまであられたのですけど、急に神言を賜って神子みこさまになってしまわれました。でもね」

 比佐のほそやかな手が、そっと肩に添えられる。

「実緒さま。あなたさまは、瓊音さまがお連れになったきみです。それだけでもうわたくしにとっても、だいじなおかたなのですよ。いまはなにもご案じにならず、どうかゆっくりとお休みになって、よくなられてくださいね。おばばからは、それだけおねがいいたします」

 実緒は喉もとを押さえつけた。どうしようもなく、くるしくなって。比佐のぬくもりもやさしさも、ここで生きていることも、ぼんやりと考えていたよりも重いつとめを負っていることも。まぜこぜになって、込み上げてきて。

「──あ、実緒さま」

「実緒さまとかでは、ないので……」

 やっとのことで、絞りだしたときだった。耳が静かな足音をとらえた。だんだんと、近づいてくる。実緒は知らず、胸に手を当てていた。

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