第14話:いつもと違うことをしてもいい?

 その夜は雨だった。

 日奈子は一学期が終わるまで不安定な帰宅時間が続くこととなり、その夜も少しだけ遅かった。三人で食事を終え、リラックスしたあと、それぞれ入浴して、夫婦は寝室に入った。

「今夜はいつもと違うことをしてもいい?」

 翔太はそう言うと、そっと日奈子の手を握った。日奈子は「違うことってなあに?」と子供に話しかけるような笑顔で首を傾げた。しかし、その瞳の奥には、どこか期待の色が宿っているように見えた。

 翔太が日奈子をベッドに押してどさりと倒すと、日奈子は翔太の目を見て、キスの兆しにまぶたを閉じた。しかし翔太の視線は彼女の顔や唇ではなく、日奈子の首筋から胸元へと滑る。

 佐奈子に教わったキスマークの付け方、そしてためらうことのない好奇心が、彼の行動を促した。翔太は、日奈子の柔らかな肌にそっと唇を寄せ、ゆっくりと吸い付く。熱がこもり、肌に赤みがにじむ。

「んっ……!」

 日奈子の吐息が漏れる。これまでと違う、深く、ねっとりするような吸い付きに、日奈子の身体が微かに震える。翔太は、佐奈子に教わったように、軽く舌でなぞりながら、さらに深くキスマークを刻んでいく。

 鎖骨のすぐ下、そして谷間にかかるあたり。日奈子の呼吸は次第に荒くなり、その指が翔太の髪を優しく掴んだ。

「あ……翔太……それ……好き」

 日奈子の甘い声に導かれるように、翔太の顔はさらに下へと向かう。日奈子の夜間着が、彼の動きに合わせてゆっくりと捲れ上がり、その下の柔らかな太ももが露わになる。翔太は躊躇ちゅうちょなく、日奈子の股間に顔を寄せ、その中心へと舌を滑らせた。

「ぁあっ……! え、え……っ? ……翔太……そこは……」

 日奈子の声は悲鳴に近く、身体が跳ねた。しかし、彼女は翔太を突き放すことをしなかった。翔太は、日奈子の拒否とも受け取れる言葉の中にある、甘い期待と興奮を感じ取っていた。彼はさらに深く、日奈子の秘めた部分を舌で撫でていく。その指は日奈子の臀部でんぶに触れ、そして、一番奥の敏感な場所にそっと差し向けられた。

「んんっ……! そこは……っ……だめ…っ……はんっ……!」

 日奈子の身体は、恥ずかしさと激しい快感に打ち震えていた。その口元からは甘く、切なげな喘ぎが途切れることなく漏れる。翔太は日奈子の反応に、これまで感じたことのない達成感を覚えた。佐奈子の「教育」が、確かに日奈子に届き、彼女の奥深くに眠っていた「刺激好き」な部分を呼び覚ましていると思ったのだ。

 日奈子は、翔太の髪を掴んでいた手を、彼の背中に回し、より深く抱きしめた。彼女の頬は陶酔に染まり、翔太の耳元で甘い声が響く。

「翔太……好き……ぅん……ぅん……」

 不潔だからいけないと抵抗されるかもしれないと思っていたが、あるがままを受け入れられた翔太は、さらなる高みへと誘った。二人の呼吸が混じり合い、熱気が寝室を満たしていく。翔太と日奈子は、佐奈子の「教育」がもたらした新たな刺激と、それによって生まれたお互いの愛情を確かめ合うように、深く、そして熱い夜を過ごした。

 それは、マンションの一室で繰り広げられる、二人の新たな「作品」の始まりだった。強い雨音の中、二人の息が重なり、最後に翔太の放出が、いつも通り彼女の体内を満たした。

 翌朝、いつも通りに翔太が朝食の支度をして、いつも通りに日奈子が玄関を出て、しばらくしてから翔太も仕事に向かった。

 梅雨明けを思わせる強い日差しが照りつける。

 日奈子は、学校での授業中も、時折、昨晩の出来事を思い出しては胸が高鳴った。翔太のいつもとは違う積極性、そしてそれに呼応してしまった自分の身体の反応。彼の指が触れた場所、唇が吸い付いた場所が、まだ熱を持っているような感覚が残っていた。これまで翔太のキスや挿入に満足しているつもりでいたが、未知のゾーンに進んだことで、それ以外の刺激が自分をどこに連れて行くのか、不安と期待が入り混じっていた──。

「──先生、大江先生、大丈夫ですか?」

 女子生徒が心配そうに声をかけてくる。顔が熱かった。汗も流れていた。日奈子は咄嗟に笑顔を作り、「うん、先生は大丈夫よ。ちょっと暑いからね。みんなはどうかな? お互いの顔を確認して」と自分に視線が集まらないよう誘導して、誤魔化した。瞳が揺らいでいる自覚があった。

 日奈子は、大橋おおはし市立第三小学校の教員として、今年で五年目を迎える。担当は二年生のクラス。好奇心旺盛な生徒たちとの毎日が、日奈子にとっては何よりも充実していた。特に、担任しているクラスの生徒たちからは、まるで本当の姉や母のように慕われていた。

 今日の午後の授業は、生活科だった。テーマは「生き物と仲良くなろう」。日奈子は、生徒たちが身近な生き物と触れ合い、命の大切さを学ぶことの重要性について語りかけた。

「みんな、公園で見かけるチョウチョやダンゴムシさんも、私たちと同じ、大切ないのちなんだよ。優しく触って、よく観察してあげてね」

 日奈子の言葉は、彼女自身の生き方とも重なっていた。

 多様な価値観が混在する現代において、他者を受け入れ、尊重することの重要性を、日奈子自身が日々感じていた。それは、自身の妊活や、妹・佐奈子との関係性にも通じるものだった。

 授業の終盤、日奈子は、生徒たちが育てたアサガオの観察日記をプロジェクターで映し出した。それぞれの生徒が描いた個性豊かな絵と、伸び伸びとした文字で綴られた観察記録。

「これは、みんなが一生懸命育てたアサガオの成長記録です。毎日水をあげたり、葉っぱの様子を見たり……みんなの優しい気持ちが、アサガオをこんなに大きく、美しい花を咲かせてくれたんだね」

 生徒たちは、真剣な眼差しで日記を見つめ、日奈子の言葉に耳を傾けていた。その光景を見ながら、日奈子は佐奈子が引っ越す前、離婚する男の話をしていたのを思い出した。

『……あの男、あたしとはまったく違うド巨乳さんに本能をぶち込んでてね。それだけならまだしも、あたしへの関心を失ってたから、もうこっちから切り出したの。姉さんも翔太さんとの「刺激」を大事にしてね』

 佐奈子からは、自分と翔太の関係に気を遣っているのを普段から感じる。時折、ちょっと性的な話題で二人を慌てさせることもある。佐奈子なりに「刺激」を持ち込もうとしているのかもしれない。

 彼女のやり方は確かに大胆だが、その根底には、自分たち夫婦への愛情があることを、日奈子は理解していた。そこには自分と異なる人生を認めて、支える多様性の本質があるようにも思えた。

 放課後、日奈子は職員室で、同僚の美術担当・田中たなか先生と話していた。田中先生は、日奈子よりも数年年上のベテラン教師で、穏やかながらも芯のある女性だ。

「大江先生、今日の生活科の授業、とても良かったみたいね。生徒たちの目が輝いていたわよ」

「ありがとうございます、田中先生。でも、小さな子に伝えるのって本当に難しいですね。どこまで言葉にして、どこからは想像に任せるか……」

「ええ、心に関わることですからね。でも、大江先生はいつも、ご自身の言葉で生徒たちの心に語りかけていらっしゃる。それが、生徒たちに伝わるのだと思います」

 田中先生の言葉に、日奈子は少し照れた。

「そういえば、大江先生は、何か新しいことに挑戦されてます?」

 田中先生が、ふいに問いかけた。日奈子は心臓が跳ね上がった。

「え、どうしてですか?」

「だって、先月から先生の雰囲気が変わったわ。以前よりも、なんだか輝いて見えるのよ。特に今朝は、これまでより表情から声まで別人じゃないかしらと思ってしまったぐらい」

 田中先生は他意のない笑顔を見せた。日奈子は顔が熱くなるのを感じた。昨晩の出来事が、まさか他人にまで伝わるほどの変化として表れているとは、自分でも驚きだった。

「そ、そんなことないですよ……」

 日奈子はしどろもどろになりながら否定するが、田中先生はにこやかに首を傾げるだけだった。

「あら、そう? 良いことだと思うわ。教員も人間ですし。日々の生活で見つけた自分だけの答え、そこから先に進むことが、生徒たちへの良い影響にも繋がるものよ」

 田中先生の言葉は、日奈子の心に染み渡った。日奈子は自分の変化が、知らず知らずのうちに周りの人にも伝わっていることに驚くと同時に、ほんの少しの喜びを感じていた。

 職員室を出て、日奈子は校舎の裏手にある小さな畑へと向かった。放課後、生活委員の生徒たちが、プロジェクターで見たアサガオや夏野菜の世話をしているのだ。キュウリやトマト、ナスが青々と育ち、小さな実をつけ始めていた。

「先生、見て! ぼくのアサガオ、他のは花が咲いているのに、これだけずっと蕾のままで、花が咲かないんです!」

 男子生徒の一人が、困ったように声をかけてきた。日奈子は生徒の指差す方へしゃがみ込む。

 周りのアサガオは、既に大きく花開いているのに、彼が世話をしているアサガオだけは青々とした葉を茂らせながらも小さな蕾のままで、一向に花開く気配を見せていなかった。

「本当だね。どうしてだろうね?」

 日奈子は、生徒たちに問いかける。生徒たちは首を傾げたり、「栄養が足りないのかな?」「お水が少ないのかな?」と口々に意見を言い合った。

「先生、佐藤くんの蕾も、いつか花を咲かせられますか?」

 別の女子生徒が、不安げな瞳で日奈子を見上げた。その問いに、日奈子は一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑顔を取り戻して答えた。

「うーん。もちろん、この蕾も、きっといつか、綺麗な花を咲かせてくれるはず。今は蕾のままでも、この子は一生懸命生きているんだよ。私たちも焦らず、この子を信じて、これからもお世話してあげようね」

 そう言うと日奈子は、そっとその小さな蕾に触れた。ひんやりとした感触が、夏の暑さの中で心地よい。

 彼女の言葉は、生徒たちに安心感を与えたようで、皆が真剣な顔で蕾を見つめ、再び水やりを始めた。日奈子も生徒たちのはたけ作業に加わった。

 土の匂い、野菜の葉の感触、そして生徒たちの笑い声。その全てが、日奈子の心を穏やかにしていく。日常の中に溶け込むことで、昨晩の刺激と、それに伴う心の揺れが、少しずつ落ち着いていくのを感じた。

 しかし、ふとした瞬間に、昨晩の翔太の視線や手の感触が蘇る。日奈子の身体は、その記憶に呼応するように、微かに熱を帯びる。

 作業を終え、水道で泥だらけになった手を洗い流しながら、日奈子はぼんやりと空を見上げた。青い空に、白い入道雲にゅうどうぐもがゆっくりと流れていく。まるで、自分たちの夫婦関係も、あの雲のように形を変えながら、どこかへと向かっているような気がした。だとしたら、それはどこへ流れていくのだろうか。

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